おのずから/サントーム/やさしさ [人間を観察する]
快楽原則から苦痛原則へ [人間を観察する]
On 2011/06/27, at 9:40, Shinya KOIZUMI wrote:
>
> 茨城大学の小泉晋弥です。
> 下記の壁画計画に感慨深いものがあります。
> 彦坂さんが,関東大震災後に,バッラク装飾社を立ち上げた村山知義とだぶって見えます。
> 90年前の関東大震災で,芸術の社会的役割についての意識が大きく変わったのと同様のことが,これから起こるという予感がします。
>
> 日本の21世紀芸術は2011年から始まったと後世記録されることになろうかと思います。
2011年の3.11以降に、日本の21世紀美術が始まるというご指摘は、
魅力のあるものです。
ここ20年は、根拠無き熱狂が吹き荒れて、
快楽原則だけでの美術がもてはやされてきました。
しかし3.11と福島原発事故、そして世界の政治経済状況の不安定化の中で、
現実は苦痛原則に支配される様になってきました。
もともとの人間の生活は、寒さや貧困に苦しめられて苦痛原則に支配されてきました。
ところが物質文明になって、生活は快適さを増して、
人間は快楽原則だけで人格を作る様になって、万能感をもつ自己中毒の人ばかりが増殖して来たのです。
3.11以降の世界情勢は、安い電力を消費する快楽原則の世界の終焉ではないでしょうか。
人間の世界は、再び苦痛原則が支配する様になって来るのではないでしょうか。
宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が予言した様に、放射能汚染が広がる腐界との共存を余儀なくされて、
苦痛原則と快楽原則のバランスが追求される中庸原則の時代へと移行して行く様に思えます。
そういう中で、現代アートもまた変貌が始まるでしょう。
そう考えたいものです。
彦坂尚嘉
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人間は一種類ではないのではないのか?
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情報出典:毎日新聞 2011年6月16日(木)朝刊 17面
ザ・特集:原発とともに歴史刻む、東大工学部原子力工学科 1期生の胸中は
東京大学工学部原子力工学科--。半世紀前に産声をあげたこの学科は、日本の原子力発電の拡大とともに歩み、今も同学部システム創成学科環境・エネルギーシステムコースとして歴史を刻んでいる。福島第1原発事故後、1期生たちの胸には何が去来しているのだろうか。訪ねてみた。【宍戸護、顔写真も】
◇「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。むなしい」--東大名誉教授・山脇道夫さん
◇「しばらく原子力は必要。情報をきちんと出し正しく評価することが大事」--IAEA元職員・小西俊雄さん
◇「放射線防護学専攻し怖さ実感。やはり原子力と人間は共存できない」--立命館大名誉教授・安斎育郎さん
白髪交じりの70歳前後の男性7人が掘りごたつ風のテーブルを囲んだ。4月15日夜、東京・新橋の居酒屋で開かれた東大工学部原子力工学科1期生の同期会。誰とはなしに福島第1原発事故の話になった。東大名誉教授の山脇道夫さん(70)は「津波対策を声高にいうべきだった」と悔やんだ。被災地を思い断酒している者もいれば、「支援のために」と東北の日本酒を飲む者も。
1期生は1962年から同学科を専攻した15人(学科創設は60年)のほとんどが長年、原子力畑を歩み、元科学技術庁事務次官の石田寛人さん、元日本原子力学会会長の斎藤伸三さんもいる。うち2人は既に亡くなっている。
広島市に生まれた山脇さんは4歳の時、「ピカドン」を経験した。自宅は爆心地から約6キロ。当時の記憶は脳裏に焼き付いている。社団法人・原子力産業協会が昨年出版した本に山脇さんはこう書いた。<突然閃光(せんこう)が部屋中を包み、しばらくして大きな爆発音とともに強風が襲ってきた。強い衝撃が感じられ、障子や襖(ふすま)、縁側の板敷などが吹き飛ばされた……>
多くの人の命を奪った悪魔の兵器、そして近未来的なすごいもの--原子力は二つの印象を子供の心に植え付けた。高校時代、市内で開かれた「原子力平和利用ミニ博覧会」に出かけ、原子力を使って電気を起こす仕組みのパネルや展示物を見た。「原子力を平和的に使って人を幸福にしたい。米国を見返したい」と思うようになったという。
60年に東大入学。2年のときに原子力工学科が1期生を募集。めぐり合わせを感じ、迷わず進んだ。東大で助手、助教授、教授と歩み、原子力に使う材料や燃料、核融合を研究してきた。
福島第1原発の事故。山脇さんは「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。無念を通り越し、むなしさを感じます」と語り、こう続けた。「それでも人は、科学技術は今度の事故を乗り越えて原子力をコントロールしなければいけない」
○ ○ ○
「戦後の貧しい時代、腹をすかせて、電気も満足にない、富山市のあばら家に雪が吹きこむ生活も体験していたから、エネルギーが重要だと思ったんです。あるかないかよく分からないところから新しいエネルギーを作るのはおもしろいなあって」
国際原子力機関(IAEA)元職員の小西俊雄さん(70)は原子力の道を選んだ理由をこう語る。放射性物質については「理屈の上ではコントロールできると思った」と振り返る。
東大大学院修了後、日立製作所に入社。高速増殖原型炉もんじゅの設計から建設まで30年近く携わった。もんじゅは原発から生み出されるプルトニウムが燃料。使った以上の燃料を生み出すため「夢の原子炉」とも言われ、2050年の実用化を目指している。
「ただ」と小西さんは苦笑する。「僕の頭の中では、1990年くらいには実用化しているはずだったんですがね……」
55歳の時にIAEAに採用され、オーストリアの首都ウィーンで7年間過ごした。滞在中の99年、核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」(茨城県)の臨界事故があり、後日、ある雑誌への寄稿文にこう書いた。<『完全な安全』は存在しない。必要なのは『頼れる技術』だと思っている。(略)接した十指に近い専門家は全て、『事故は起きるもの、起きたら民衆に話す、そして改善する、その積み上げで信頼を築く』姿勢を語った……>
小西さんは「原発を推進するうちに『事故は起きないはず』になり、やがて『はず』も抜け落ちてしまったのではないか」と語る。ただ、今すぐ全廃に向かうことには否定的だ。「未来永劫(えいごう)ではないが、しばらく原子力は必要。自然に左右される太陽光や風力では安定した電力にならない。情報をきちんと出し、何が起きたのか正しく評価する。そこが大事なのです」
○ ○ ○
1期生の中でただ一人、「反原発」のスタンスで長年、発言してきたのは、立命館大学名誉教授の安斎育郎さん(71)だ。記者はJR京都駅近くのマンションの一室を訪ねた。安斎さんは「学生時代の写真が残っていたんだ」と、テーブルに学生時代の写真数枚を広げた。数人の仲間と一緒に並ぶ黒ぶち眼鏡の青年がそこにいた。意志の強そうな顔をしていた。
最初から原子力を否定していたわけではない。「目新しい学科だし、時代の最先端という感じもした」。専門は放射線から身を守る放射線防護学。安斎さんは学生時代のある実験を語った。「ネズミに多量の放射線を浴びさせて観察する。ネズミは数時間かけて、手足をけいれんさせながら死んでいった。見た目は変わりなくても、解剖すると臓器が大きくなっていたり……衝撃的でした。人類はこんな危険なものを手なずけなくてはいけないのかと」。放射線防護に関する論文を相次いで発表し、69年には東大医学部の助手になった。
国の原子力政策についても疑問を持つようになった。「十分な安全が確保されていないのに原発計画を推し進めている」と。講演会などで国を批判したところ、研究室では無視されるようになった。後日、研究室の一人が「安斎を干せと指示された」とささやいてくれた。電力会社から研修に来た医師は、安斎さんの隣の席で数年過ごした後、「安斎さんを偵察していた」と打ち明けた。原発推進派からは海外留学の誘いも受けた。体のいい厄介払いだと思った。
忘れられないエピソードがある。73年9月、福島第2原発1号機の設置をめぐる福島市の公聴会で、原発賛成派の地元婦人が、高校野球で広島県代表が活躍した例を挙げてこう発言した。「(放射能で汚染されたはずの)広島さえ子供が元気に育っているから、放射能は恐れるに足りない」。結局、東大で17年間助手を務め、立命館大に教授として移った。
福島は、両親の出身地で戦中過ごした疎開先でもある。4月に浪江町を訪れた安斎さんは言う。「菜の花が美しく咲き、桜が咲き乱れるところなのに誰もいない。透明な怖さが沈殿しているように見えました。やはり原子力と人間は共存できないと思います」
記者は他の1期生数人とも電話で話した。誰もが何かしらの虚脱感を抱きながら、人生をかけた原子力の意味を自問しているように思えた。
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私自身は、多くの場合、彦坂が悪い人で、だからトラブルになったという結論に持ち込まれるのですが、どうしても、そうは思えないところがあります。
具体的にくどくどしく書いても汚い話なのでしたくありません。その結論としては、一つは空間の小さな人とは、問題を起こすという事です。