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おのずから/サントーム/やさしさ [人間を観察する]

 緒方勇人さんからコメントをいただいています。
見落としたのと、さらに内容が真面目なので、お返事を書くのが遅れてしまって、申し訳ありません。

彦坂尚嘉様

 ラカンの謂うサントームを言い換えるものとして「やさしさ」がでてきたこと、興味深く思います。

 ひとびとの生活する日本という場所において、彦坂尚嘉の謂う《第六次元 自然領域》のみの単層的、あるいは《第一次元 社会理性領域》から《第六次元》までを含んだ複層的無人格の人間が大勢を占めていることは、経験にもとづく状況認識にとどまらず、日本思想の観点からある程度うらをとれることのように思います。

 もう亡くなられた倫理学者で和辻哲郎のお弟子さんであった相良亨の晩年の仕事に、「おのずから」形而上学という、あまり知られてはいないけれどもたいへんな射程をもった論考があります。

「このたびはめでたく結婚するはこびとなりました」「~のように思われる」などといった日常的な表現を省みると、わたくしたち日本人の言語表現には、西欧流の確固とした個人ないし主体としての一人称(person人格)を欠いたあらわし方が多くあり、また自然でもあることがわかります。おのずとそうなった、そう感じられたのだ、と。そうした「おのずから」の発想の急所は、わたくしたちを巻き込むかたちで生じた出来事に対し分析の眼を向けられないことにあります。だから、とかく事実究明ができない、物事の帰責がうやむやになりやすい。

 こうした日本特有の性質は、かつて丸山真男が「無責任の体系」と呼んだところのものにほかなりませんが、また同時に、「つきつぎとなりゆくいきほい」という言葉でわたくしたちの歴史意識の古層に見出したものであることを、先の相良や世間研究の阿部謹也やがそろって注目していることであります。相良の晩年の仕事は、この丸山の慧眼にヒントを得ながら日本の思想家にみられる「おのずから」の系譜をたどったものと云えます。

 日本の世間をなしている彦坂理論で謂う単層的ないし複層的無人格の多数が決定的に欠いているのは、ひとえにヨーロッパ一流の苛烈な批判精神でしょう。日本思想に脈々と流れている「おのずから」とは、まさしくこれとまっこうから衝突するものなのですから。この事態は日本における哲学の不毛を語ってもおります。

「やさしい」という日本語をその語源にまで遡ると「痩す」という語にゆきつくそうです。若さゆえにまだわたくしは「あきらめ」られていませんが、哲学をする者として、ソクラテスめいた「やさしさ」をもって生きることを日々切々と感じつつ実践におもむいております。 
by 緒方勇人 (2011-06-29 05:35)  


緒方勇人様


すばらしいコメントありがとうございます。お返事遅れてすみません。ご指摘の「おのずから」というのは、ご指摘の様に、日本の古層にあるもので古事記にある世界創造の神話にも見られたものであると記憶しています。

私自身は、日本文化の特徴や構造を無視する者ではありませんが、しかし思考の基準は、全人類という範囲で考える立場をとっています。つまり《近代》にあった国民国家という枠組みの外に出て、思考すべきであると考えるのです。

日本の政治を含めた権力構造の甘さというのは事実ですが、このことは日本の文化の構造が、いわゆる古代文明の伝統を持たない地域の性格であって、根底に原始性を温存していて、これを是正や構造改革はなし得ないものであると考えます。

あきらめであるとは思いません。構造的に無理であると考えたいのです。

こういう原始性を抱えた構造は、しかし日本だけではないのであって、ローマ帝国や中華古代帝国等々の古代文明の外部世界には、今日まで続いている性格です。分かりやすい所ではロシアです。

つまり地球規模の世界には、2つの文化があるのです。一つは古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化。もう一つは、原始の野蛮性を基盤として継続している文化。

この2つの文化が確執を繰り返す事で、世界は複雑な様相になっています。


重要なことは、この2つの文化の外部に出る精神ではないでしょうか。

古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化というのは、アメリアでも中国でもそうですが、外部侵略を繰り返していないと成立出来ない性格を持っています。古代帝国の伝統というのは、今日でも帝国主義の形態において作動し続けるのです。

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相良 亨(さがら とおる)のことは知りませんでしたが、日本文化の中に美と倫理を見出したひとなのですね。3.11以降の今日の日本では、再び伝統的な家族観や倫理観への回帰が強く見られますから、再読する意味はあるのだろうと思います。

ただ、前近代の日本に、日本的なる心を見る事が間違っているとは思いませんが、しかし明治維新で日本の前近代の文化は壊れます。

壊れたと言っても、彦坂尚嘉が言う場合には、水の比喩で、固体から液体に溶けて行ったように、様態変化が起きたと考えます。

「日本の心」といったものが、固体から液体に様態変化をして、さらには気体になて、今日ではプラズマ状態にまでなっていると考えるのです。

様態変化が起きる原因は、温度が上がって来たからです。
固体である氷が溶けて、液体の水になって、河川のように速いスピードで流れる時代は、近代だったのですが、これはまだ理解しやすい時代でした。

しかし液体が沸騰して水蒸気になって、文化というものが気象化すると、問題が見えにくい時代になります。歴史も明確には見えなくなります。

さらに今日では、水分子が、高温化によって電離して、陽子イオンと電子になって自由に飛びまわる状態になっています。この様態変化は、従来の常識を完全に壊しているので、恐るべき変化に社会は見舞われているのです。

こうした様態変化も、実は「おのずから」であって、誰かが意図して設計したものではないのです。

by ヒコジイ (2011-07-10 08:31)  

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