絶望社会/フォイエルバッハへの回帰(改題1) [状況と変動]
>やさしさ
に共感します。
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moo (2011-06-19 01:30)
moo様
コメントありがとうございます。
「やさしさ」というのは、社会主義や共産主義の問題、いわゆる左翼の問題であると、思います。と、書き出しましたが、だれも読みたくないような記事になりそうで、あいかわらずですが、自分で困っています。
他人に対してやさしくなろうとするというか、貧乏な人や、苦しんでいる人に同情するような態度が、昔の左翼でありました。もともとである空想社会主義のひとびと、特にサンシモンは、私は高く評価します。顔を見ても《超次元》から《第6400次元》まである重要な人物です。
つまり空想社会主義者達は評価しますが、私自身は、昔の左翼、つまりマルクスやエンゲルスの科学的社会主義者は失敗したと思います。
今の情報化社会の自称左翼のような活動をしている人も、正直言って、どうしようとしているのかが、よく分かっていません。
さて、話を科学的社会主義の失敗についてします。《近代》という時代を特徴づけた一面は、共産主義です。これが何故に理想の社会建設にならなくて、実際には多くの人を虐殺して行くものになってしまったのか、その失敗の原因をそれなりに考えておかなければならないと思うのです。
人間の社会というのは、けっこうむずかしいもので、今の日本社会には、菅直人のような《第6次元 自然領域》の人が権力を握る例が多くて、その結果が、社会的にはかならずしも「やさしさ」に結びついてはいません。
福島県の放射能被爆にしても、多くの若い女性が被爆して放置されていますが、その女性の体内には卵子があるわけです。女性の体内の卵子は、後から作るわけではなくて、最初から卵子は全てあるので、この一人の女性の卵子が全てが、今回の福島原発の事故で、被爆してしまった人が多く入るのです。ですから、その女性の将来の妊娠や出産は、奇形児等の事故の確率が非常に高くになっています。
こういう若い女性や幼児、子供は、早くに退避させなければならなかったのですが、菅直人首相の人格は、彦坂尚嘉の言語判定法の性格分析では《第6次元 自然領域》であって、単層の人格なので、このような将来の悲劇を予知して対処する能力を持っていないのです。
wikiによれば、菅直人は、東京工業大学に入学。在学中は学生運動にのめり込んでいたそうです。全共闘や民青からは一線を画した「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活躍したというのです。同じくwikiからの孫引きですが、『週刊新潮』の「菅直人の研究」によれば、東工大の同級生は「大学の自治会に、中核派が入り込んでいたんですが彼は“イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ”と、よく中核派に食って掛かっていたということです。それは「全学改革推進会議」なるものを立ち上げて、15人くらいを率いて極左系とは違う学生運動を行っていたというのです。
「“イデオロギーでは何もかわらない」というのは一理あると思いますが、では菅直人的な意味での現実的な対応というのは、具体的に現実を変えるものとして評価できるものであるのでしょうか。
現実を変える事ができるとも、できないとも言えるのですが、今回の福島原発事故をめぐって見えて来た日本社会の構造そのものは、彦坂尚嘉にとっては絶望的なものであって、日本社会の本質的な構造そのものを変える事はできないと、考えるに至ったものです。
貧しい日本の現実を変えるものとして原子力の平和利用という選択はあったし、人間は理性的で聡明であるから原子力をコントロールできて、事故は絶対に起きないと信じたのです。つまり原子力発電というもの事態が、人間の聡明さと理性性への妄信が造り出したものでした。そして取り返しのつかない大事故として福島原発事故は出現した。それは人間の理性性や知性そのものへの深い懐疑に至るものです。
変える事はできないけれども、社会そのものは不動なものではなくて、変化し続けていて、しかも盲目的で集合無意識的な運動をし続けるもののように見えました。
それは昆虫のうごめきのようなもので、ほぼ自然のようなものです。しかしそれは無意識を大量に含んだ自然であって、分かりやすく言えば精神病の集団のような動きです。つまり理性的な動きではなくて、非合理的で愚かで、遅い運動です。
それは自分自身に対する批判としても言えるものであって、自分が理性的で聡明であると見えるわけではなくて、自分自身を含めて人間とか日本社会とかが、どうしようもなく愚かで、昆虫的なものであると見えるものなのです。
このように理性性や聡明さを欠いた動物的で狂人的なものとして人間や社会が見えるという事、しかもそれが脱出不可能なものとして思えるという絶望性こそが、この情報化社会特有の現象であると考えます。
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《近代》という時代は、人間が理性や知性を使って、聡明になれると信じられた時代でした。その代表がマルクスの共産主義の運動でした。
マルクスの顔を画像で見て、彦坂尚嘉の言語判定法で分析すると《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》まであるものです。
彦坂尚嘉のこの言語判定法という方法では、マルクスに人格は無いと出ます。
人格がある人間と、人格の無い人間の2種類がいるのですが、マルクスにはありません。
かなり常識はずれの指摘ですので、怒る人はいても、賛同してくれる人はいないでしょう。
マルクスの思想はフォイエルバッハにおっていますが、このフォイエルバッハの顔は、《超次元》から《第6400次元》まであって、哲学者として読むに値するすぐれたものだと言えます。というわけで、今しがた本を注文しました。石塚正英・河上睦子・柴田隆行編『神の再読・自然の再読:いまなぜフォイエルバッハか』理想社、1995年。
共産主義が何であったのかというのは、色々な議論があると思いますが、その一面はマルクスという人物そのものが、《第1次元 社会的理性領域》〜《第50次元》までの哲学者であった事にあると、彦坂的には考えます。
つまり《第1次元 社会的理性領域》から《50次元》までの哲学者というのは、哲学者としては不十分な性格であって、その為に、人間の暗い面を切り捨てるためにロボトミーの研究を肯定的に考える思想に至りつくような性格をもつ思想的立場でした。このようなロボトミー肯定の主張はトロツキーの著作に見られます。
ソヴィエト共産主義政権が、スターリンという人類史上最悪の独裁者に至りついたのは、マルクスという人格と同一の構造であったからです。
スターリン
《第1次元 社会的理性領域》から《50次元》までの
人格の無い人物。
スターリンもまた《第1次元 社会的理性領域》〜《第50次元》までの人物であって、マルクスと同じように、人間的な深みに欠ける性格であったのです。
スターリンは大量虐殺を繰り返したのです。それは人間を虫のように殺すという面で、ナチズムに似ていました。ナチズムもまた国家社会主義であって、社会主義というものの中に有る《第1次元 社会的理性領域》の暴走性は、非常に危険なものでした。
近代日本社会というのは、ナチズムと同様の国家社会主義社会であって、全体主義社会なのでした。それは敗戦後も変わらずに、ネガティブな国家神道は生き続けてきたと彦坂尚嘉は考えます。つまり戦後もまた大政翼賛会のシステムはネガティブに見えない姿にかわったにしろ、作動し続けて来たのです。それが今回の福島原発事故に結果したと、私には思えます。
つまり彦坂尚嘉的に思考すると、《第1次元 社会的理性領域》〜《第50次元》までの人物というのは、人間として浅薄で、危険であるということです。彼らは、大量虐殺を繰り返し、そしてまた原発を推進するのです。
しかしそういう人物達こそが、人間の社会と政治と経済の中枢を形成し、盲目的に社会を良い方向に変えようと運動しているのです。その結果が愚かなまでに悲惨であっても、私たちはそれを回避出来ない様に見えます。
《第1次元 社会的理性領域》というものは、実は異質なものを抑圧し、排除し、殺すという、非常に危険な面を持っているのです。寛容性に欠けるのですが、しかしその社会的理性性抜きで、現実の社会を形成出来ない事も事実です。
社会はしかし、《超次元》から《第6400次元》までもつ《超一流》の人物を排除すると、社会集団そのものが新興宗教のようなカルト化して、そして集団自殺にのめり込んで行くのです。
それが日本では、東条英機や菅直人といったような《第6次元 自然領域》の無能な人物をトップに据える形で、一種の集団自殺にのめり込んで行ったのです。
「やさしさ」というものは、この社会主義的な大量虐殺を反転させたものです。殺さないで、共存して行く。共存できない人々と共存する方法が「やさしさ」であると言えます。お互いの違いを認め、分かり合えない人々とも、適切な距離をもって生きていく。「やさしさ」というのは、同質性を求めるのではなくて、互いの異質性を認めて、各自自立して生きる道です。ですから「やさしさ」の裏側には諦めがあります。
情報革命とその結果としての高度情報化社会の出現は、社会そのものを大きく変貌させ得るだろうと、私は思います。権力の根底には暴力があって、オバマがビンラディンを殺したように、殺すという方法や軍事行動を抜きにしては国際関係を形成出来ないということは事実なのですが、このような暴力性を抑制して行く事が重要なのです。それがサントームです。
そうするとどうなるのか?
年間5000人近い自動車事故の死者が出続けているとか、3万人を越す自殺者がでるとか、今後福島原発の放射能によって100〜140万人くらいに達するかもしれない死者がでるとかいう、大量の犠牲者の出現する社会が未来の社会なのです。つまり大量殺戮は無いのですが、大量の犠牲者が出現し続ける社会になるのです。
社会を形成して行く中で、犠牲者というものが出るという事です。このことをなくす事ができない。犠牲者抜きには、社会が形成出来ないのです。大量虐殺を中止しても、大量犠牲者は出続けるという事な避け得ないのです。この冷酷な認識の中でサントームの精神としての「やさしさ」が作動するのです。
放射能による静かな100万人規模の大量の犠牲者が出続ける社会の根底には、絶望が広がります。絶望社会こそが、日本の未来なのです。その中で確信をもって生き抜く事が重要であるという認識が、サントームの精神です。
《第6次元 自然領域》の人々が権力を握って作動する社会の中では、犠牲者は生まれ続けるのです。その絶望社会の中を、確信をもって生き抜くことは、ある意味で、自然がもっている自然淘汰のシステムを認める事です。
地球の歴史の中では5回の大絶滅があったと科学者は言います。絶滅そのものは、地球史の中では珍しい事ではありません。日本人が絶滅に向かったとしても、それは珍しい事ではなくて、普通のことです。そのことを認める事です。必要以上に嘆く事は無くて、そのような大量死を歴史的必然として、事実を事実として認める事が重要なのです。そういう覚悟の中で「やさしさ」が生まれます。
菅直人という《第6次元 自然領域》の権力者とか、原発推進派の《第6次元 自然領域》の人々とか、このような人々は権力を握る事で、犠牲者を大量に出し、事態を悪化させるのですが、この事自体を止める事も出来ないとすれば、そのことを「やさしく」受動的に、事実として認める事です。社会が絶望を基底に抱える事は、今後避け得ないのです。
もともとブッタ(仏様)が認識したように、人間の存在の根底には老病死の絶望が存在するのです。この苦痛から解脱する修行の過程が人生です。絶望社会の到来というものを、私たちは認めて、これをまず、受け入れる必要があるのです。
2011-06-25 09:19
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彦坂尚嘉様
ラカンの謂うサントームを言い換えるものとして「やさしさ」がでてきたこと、興味深く思います。
ひとびとの生活する日本という場所において、彦坂尚嘉の謂う《第六次元 自然領域》のみの単層的、あるいは《第一次元 社会理性領域》から《第六次元》までを含んだ複層的無人格の人間が大勢を占めていることは、経験にもとづく状況認識にとどまらず、日本思想の観点からある程度うらをとれることのように思います。
もう亡くなられた倫理学者で和辻哲郎のお弟子さんであった相良亨の晩年の仕事に、「おのずから」形而上学という、あまり知られてはいないけれどもたいへんな射程をもった論考があります。
「このたびはめでたく結婚するはこびとなりました」「~のように思われる」などといった日常的な表現を省みると、わたくしたち日本人の言語表現には、西欧流の確固とした個人ないし主体としての一人称(person人格)を欠いたあらわし方が多くあり、また自然でもあることがわかります。おのずとそうなった、そう感じられたのだ、と。そうした「おのずから」の発想の急所は、わたくしたちを巻き込むかたちで生じた出来事に対し分析の眼を向けられないことにあります。だから、とかく事実究明ができない、物事の帰責がうやむやになりやすい。
こうした日本特有の性質は、かつて丸山真男が「無責任の体系」と呼んだところのものにほかなりませんが、また同時に、「つきつぎとなりゆくいきほい」という言葉でわたくしたちの歴史意識の古層に見出したものであることを、先の相良や世間研究の阿部謹也やがそろって注目していることであります。相良の晩年の仕事は、この丸山の慧眼にヒントを得ながら日本の思想家にみられる「おのずから」の系譜をたどったものと云えます。
日本の世間をなしている彦坂理論で謂う単層的ないし複層的無人格の多数が決定的に欠いているのは、ひとえにヨーロッパ一流の苛烈な批判精神でしょう。日本思想に脈々と流れている「おのずから」とは、まさしくこれとまっこうから衝突するものなのですから。この事態は日本における哲学の不毛を語ってもおります。
「やさしい」という日本語をその語源にまで遡ると「痩す」という語にゆきつくそうです。若さゆえにまだわたくしは「あきらめ」られていませんが、哲学をする者として、ソクラテスめいた「やさしさ」をもって生きることを日々切々と感じつつ実践におもむいております。
by 緒方勇人 (2011-06-29 05:35)
緒方勇人様
すばらしいコメントありがとうございます。お返事遅れてすみません。ご指摘の「おのずから」というのは、ご指摘の様に、日本の古層にあるもので古事記にある世界創造の神話にも見られたものであると記憶しています。
私自身は、日本文化の特徴や構造を無視する者ではありませんが、しかし思考の基準は、全人類という範囲で考える立場をとっています。つまり《近代》にあった国民国家という枠組みの外に出て、思考すべきであると考えるのです。
日本の政治を含めた権力構造の甘さというのは事実ですが、このことは日本の文化の構造が、いわゆる古代文明の伝統を持たない地域の性格であって、根底に原始性を温存していて、これを是正や構造改革はなし得ないものであると考えます。
こういう原始性を抱えた構造は、しかし日本だけではないのであって、ローマ帝国や中華古代帝国等々の古代文明の外部世界には、今日まで続いている性格です。分かりやすい所ではロシアです。
つまり地球規模の世界には、2つの文化があるのです。一つは古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化。もう一つは、原始の野蛮性を基盤として継続している文化。
この2つの文化が確執を繰り返す事で、世界は複雑な様相になっています。重要なことは、この2つの文化の外部に出る精神ではないでしょうか。
古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化というのは、アメリアでも中国でもそうですが、外部侵略を繰り返していないと成立出来ない性格を持っています。古代帝国の伝統というのは、今日でも帝国主義の形態において作動し続けるのです。
by ヒコジイ (2011-07-10 08:31)