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人減精神の歴史/意識の外の出ることについて【草稿2改題1】 [アート論]

近代の小説を考えると、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や、バージニ・アウルフの『ダロウェイ夫人』、プルーストの『失われた時を求めて』に代表されるように、意識の流れを追う事で、小説が成立するという面が読みとれます。

それは近代の音楽を考える時にも言えて、ドビッシーの音楽や、ジャズに代表される音楽は、この意識の流れを追う事で成立する、氷が溶けて水が流れるような水平性の強い時間性があります。

近代の小説を「意識の流れ」という事だけで定義する事は無理がありますが、しかし近代という時代を考える時には、この《意識の流れ》という言葉が指し示すものは大きいのです。

近代の音楽は、すべてではありませんが、重要な主流の音楽は、この意識の流れとしての音楽であったととらえる事ができます。一方方向に、水のように流れる音楽が、近代の音楽であったと、私は考えています。

意識というものの動きを注目しているのですが、この《意識》というものが、近代の特徴であると、私は考えるようになりました。

意識というもの事態が、デカルトの「我思う故に我あり」というコギトに発して、流れ続ける。つまり氷が溶けるように液体化現象をしめしたものが近代であったのです。その意味では、近代以前の中世においては、意識そのものが流れないというか、意識とは言わないもの、たとえば《物語》に閉じ込められていたと考えられます。

言い換えると、近代以前には、意識というものは無かった言いたいのです。無かったという言い方は問題ではあるのですが、《物語》というのは液体ではなくて個体状態であって、人間の精神が個体状態であるものと、液体化して流れ始めた意識というものは、違うのであって、液体状態である人間精神が意識であると定義すれば、近代以前は個体状態なので、意識はなかったのです。

文学的には、小説は近代の産物であって、それ以前の文学は、基本的には物語でありました。物語と小説の違いを論じようとすると長くなりますが、この区別は重要です。

音楽でも、ヨーロッパで言えば、近代からの音楽と、それ以前の音楽であるアーリーミュージックとは、ずいぶん違うものです。古代ギリシアの音楽や、ビザンチン聖歌、グレゴリオ聖歌などを聞いていると、人間精神が落ち着いていて、非常にゆっくりしていることを聞き取れます。少しずつ、氷河のように流れているような精神の状態です。

このゆっくりとした落ち着いた精神の状態が、近代や、現在の情報化社会では失われたのです。ですから瞑想をするとか、癒しという時間は、こうした近代以前の税新状態に戻って、精神を回復させる作業なのです。

メディア的には、小説は新聞小説で始まっていて、印刷されたものと言えます。近代以前、正確には印刷技術以前の文学を、前近代の文学である物語であると言う事にしておきます。つまり新聞に連載されて毎日読んででいくような動きの中に登場するのが小説であるのです。日本でのその代表は夏目漱石ですが、漱石の小説は代表的な近代の精神の流れを示しています。それは実存主義とでも言うべきものを先取りしているという先駆性に満ちた個人の意識の葛藤の記述でありました。

音楽も、近代の音楽は楽譜が出版されることが大きな事です。コンサートホールの出現や、多くの聴衆を生み出す音楽興行の出現が近代音楽を生み出すのですが、ここには川が流れるような液体化した精神のながれがあるのです。

この前近代より、さらに前の書き文字が現れる以前の自然採取段階の文学は、記憶による伝承文学ですが、これを神話という名前で呼んでおきます。

つまり自然採取段階の、記憶と伝承による文学が、神話です。

音楽で言えば、自然採取の時代の音楽だけではありませんが、民族音楽と言われるものがそうです。私が影響を受けたものは、アイヌの音楽や、アメリカインディアンの音楽などです。これら原始音楽には、精神の固定した状態が聞き取れます。運動が無くて停止しているのです。

もちろんそれは書き文字ができると、書き起こすようになるので、私たちが読んでいる神話は、書き文字でですが、しかし、もともとは文字の無い段階での文学が、神話でありました。言い換えると、この段階の人間の精神は、神話にとらわれています。この神話を生み出す精神の動きと、近代の水平に川の水が流れるように動いていく意識は違うものです。今日でも、神話で物事をとらえる傾向は残っていますが、神話化しなければ理解できないという人は、古い人間です。

音楽も、現在では録音されたものを聞きますが、元々の原始音楽には記録性はありません。楽譜もなくて、記憶と伝承によって音楽が伝えられていったのです。

書き文字が出来て、書き文字というリテラシーによって生まれる文学は、聖書にしても、仏教教典にしても、物語という構造をもっていると考えます。昔は人がしゃべる口語と、文字で文章を書く文語は違うものでした。この文語が独立していて、口語と分離している状態が近代以前の文学であって、そこでは人間の精神は落ち着いていてゆっくりとしていたのであって、近代のように流れていなかったのです。

書き文字による文学である物語は、これもゆっくりと流れるのですが、それは氷河が流れるようなスピードと、くっつき方というか、氷の中にすべてが凍てついて、未分離な状態であったのです。それが物語という構造であります。

近代の文学は、この氷河が溶けて、水になって、川が流れ出すような形態であって、これが意識に注目する運動性をもった小説の登場です。そこには、古い物語を否定する意識がありました。

さらに情報革命という新しいリテラシーが生まれると、この近代の意識そのものの外に出ることが必要になってきます。

近代特有の意識そのものには、問題があって、奇妙な集中性と、邪魔なものを排除する性格があります。

意識の外に出ると、より広範囲なものに視野が開かれます。意識の外部が、サントームであります。ラカン用語では分かりにくければ、マネージメントの精神です。これは、近代の意識の外に出ないと成立しないのです。

意識の外に出た音楽というものの、分かりやす例はライヒのミニマルミュージックです。ここでは意識は流れないのです。というよりは意識そのものが壊れています。

つまり、今日の情報革命の中では、新しい人間精神の構造が出現したのですが、ここでは意識は壊れて、散乱しているように見えます。



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