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お笑いは芸術なのか? [アート論]


1、  喜劇は芸術なのか?


笹山直規さんから、次のようなご質問を個人メールでいただいています。



彦坂様

ブログではロック論でいつもお世話になっております。

さて、実はもう一つお聞きしたかった話題があります。
それは「お笑いは芸術か?」という問題です。

「お笑い」が好きで、芸術であろうとなかろうと、面白くて、笑えれば良いという人にとって、こういう質問自体が、無意味でしょう。ですから、読まないでください。

彦坂の場合に、どうしても歴史をさかのぼって考えてしまいます。

すなわち、今の「お笑い」というのは、風化してしまっているというふうに、見えます。テレビの中の主流になってしまった日本の現在の喜劇が面白いはずが無いではないですか。

「昔は良かった」という年寄りの懐古趣味なのです。これもまた、ある種の「お笑い芸」であります。

私自身は喜劇は大好きで、映画でもたくさん見てきました。
最近ではアドレナリン、そしてトランスフォーマーがすごかったです。

自分自身もお笑いをやっているという自覚があります。

昨日も軽自動車で、京都から藤沢まで走ってきて、途中80分の工事渋滞に巻き込まれながらも、無事に朝6時30分にアトリエに着きました。命をかけて、こういう馬鹿な往復を毎週繰り返しているのは、お笑い以外のものでは無いのです。この彦坂尚嘉
のお笑いパフォーマンスに芸術性はあるのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《芸術》というものそのものは、原理的には何にでも接合するものであるのです。ですから《お笑い》にも接合します。つまり《お笑い》と《芸術》は別のものですが、《芸術》と接合した《お笑い》もあるのです。

しかし芸術と接合をする意味があるのか? という基本的な疑問も重要です。芸術がすべてではないし、芸術では無くても面白いものはあるのです。芸術であるメリットというのは、腐らないということです。刺身は腐りましから、30年立って食うのは難しいです。デザインものというのは刺身のような生ものですので、時間が経つと腐るのです。芸術はワインや梅干しの漬け物のようなものですから、古くなるとおいしくなってくるのです。

《芸術》は、原理的に何とでも接合する故に、犯罪との接合は可能ではありますが、しかしこれも原理的に、犯罪の芸術化したものを、「芸術」とは言いません。

それは《芸術》というものそれ自身が、本質的に《原-犯罪》なものであって、個人的な非合法性を社会の中に滑り込ませる技術が《芸術》なのですから、《原-犯罪》という潜在性を失って、明確に社会において犯罪」となったものは、どれほどに芸術的であっても「芸術」であるとは言わないで、犯罪というのです。つまり公然と犯罪であるものは、芸術ではないのです。犯罪になる以前の犯罪性を密やかに潜在させているものが《芸術》であるのです。

古代ギリシアで上演されていた「喜劇」というのものは、もともと「悲劇」と対照しているものでした。ダンテの『神曲』も原題は「神聖な喜劇/La Divina Commedia」であるのであって、実は喜劇も悲劇も、複数の人間の関係である社会の公共性の成立の原理の中にある偽善性/虚偽性と、人間が格闘して行く過程をとらえたものであったのです。ですから《お笑い》は、《芸術》と類縁性がもともとあるものなのです。


言葉の問題があるので、《お笑い》の古典として狂言の雁礫(がんつぶて)を見てください。ここには《原-芸術》《芸術》が成立しています。

あらすじ

狩りに来た大名が一羽の雁を見つける。射ようとしたところ、突如現れた男に雁を持ち去られてしまう。大名は自分が睨み殺したのだから自分のものだと言い張るが男は聞かない。そこへ仲裁人が現れ、大名に今一度雁を射ることができたならば大名のものとしようといい、先ほどの雁を置いて射させる。矢は見当違いの方向へ飛んでいき、男と仲裁人は雁を持って立ち去っていく。 

みどころ

偉そうなんだけどやっぱり偉くない大名と、抜け目のない庶民という対比が面白く描かれた狂言らしい狂言です。狂言に出てくる仲裁人はみな心得た人ばかりで、男に「あの大名が射ることができるわけないだろ」と耳打ちするあたりちょっと賢いようです。案の定、かすりもしないわけで、男達も客席もどっと沸きます。

彦坂尚嘉責任による
[狂言:
雁礫(がんつぶて)]の芸術分析


《想像界》の眼で
《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で
《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で
《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。
固体(=前-近代)表現。
ただしプラズマ/気体/液体/絶対零度の4様態は無い。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示


《透視演劇》と《原始演劇》の同時表示。
オプティカル・イリュージョンと『ペンキ絵』性の同時表示。
【A級美術】である。ただしと【B級美術】性は無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原キッチュ》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。しかし《イラストレーション》性、《デザイン》性は、《シンボル》性ある。だが《キッチュ》性は無い。

貴族の芸術である。しかし大衆的キッチュ性は無い。

作品空間の意識の大きさが《グローバル》である。
《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》という鑑賞構造5つが有る。
情報量が100である。
クリエイティヴである。

狂言は面白いと思います。
狂言面にも良いものがあります。

さて《喜劇》や《お笑い》は芸術なのか?
《喜劇》そのものや、《お笑い》そのものは芸術ではありません。

たとえば、すでにふれた『アドレナリン』『アドレナリン2』というアクション映画がありますが、これは同時に《喜劇》であり、《お笑い》です。

が、しかし《原-芸術》や《芸術》はありません。つまり芸術ではないのです。

しかし優れた喜劇です。101次元から200次元まであって、必見の2本です。2になっても落ちなかったということも評価できます。

芸術でなくても良いのです。



今日の高度消費社会の中では、スピードが速くて、消費のこの早さが重要になります。そうすると、腐る腐らないは関係がないので、早く消費するためには、日持ちの良い芸術である必要はないのです。芸術でなくても、面白ければ良いのではないのか?

そういう考えはすでに答えが出ていて、
漬け物である芸術は、古くなったのです。
今日では古漬けには意味が無く、浅漬けでよいのです。
生で良いと、社会全体が考えているように思います。

さて、笹山さんのメールの続きです。



ご存知かと思いますが、松本人志というお笑いタレントがいます。
日本のお笑いを世界に誇れる文化にまで築き上げた功労者であり、
私世代などは、最も影響を受けた人物の一人です。

彦坂さんから見て、松本人志の発想は、ただのお笑いでしょうか?
それとも彼のお笑いは芸術でしょうか?
是非ご一考頂ければ幸いです。


映像が削除されましたが、松本vs若手芸人で、即興でお題に応える「大喜利対決」の私の感想↓
http://ameblo.jp/studio-nega/entry-10580012488.html

車のマドからの手の出し方
http://www.youtube.com/watch?v=grL8L8wI-mY&feature=more_related

入場料一万円ライブでのコント
http://www.youtube.com/watch?v=GH1DP6Sddto&feature=more_related

ビデオ作品
http://www.youtube.com/watch?v=WxFziMTllvg

松本人志のコントは、私には無意味をデザイン化したものでしかありません。面白くない。社会を生きるしかない人間の抜き差しならない無意味生に連動していなし。すでにあった日本の小劇場的な喜劇の手法を焼き直しているように見えます。ここに深い意味を見るのは、日本的な了解性にすぎないように見えます。日本のテレビドラマのつまらなさと同様の浅さがあります。松本という人は知識の多い人には思えますが、すぐれた喜劇人には見えないのです。まあ、しかしこういう感想はあくまでも彦坂的なものであって、今日の日本社会が面白いと言ったり、高く評価しているものが、異常に見えてしまっているのです。

世界の非常識は日本の常識というように見えてしまいます。

フロイトや、ラカンの精神分析の中では、ウイット、機知、冗談、ユーモアといったものが、非常に重視されています。駄洒落を含めて、冗談の中に、象徴界としての言語と、その意味の体系を揺るがし、ゆさぶる機能が、喜劇やお笑いにはあるのです。そういう意味体系の揺らぎが、松本のコントではデザイン化されていて安全すぎるのです。初期のエディ・マーフィーの冗談の毒は、人種差別や女性差別の満ちていて面白かったですが、そういう危険さはテレビで放映できる範囲の中に囲い込まれている日本のコメディアンには求めようのないものです。


全てのお笑いが芸術ではありませんが、《原-芸術》や《芸術》である喜劇作品があることは、あります。

いくつか実例を【YouTube画像】でお見せしておきます。
とは言っても、腰砕けで、あまり捜す時間がありませんでした。

すみません、好きな映画はたくさんあるのですが、
まあ、一つはモンテぃパイソンなのです。














タグ:松本人志
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広田

ついでと言ってはなんですが、千原jrのコントも批評して頂けないでしょうか。

千原jrは松本人志から大きく影響を受けてはいますが、残忍性のあるコントで、笑えるかどうかのギリギリを表現することがよくあります。世界を見通す深い目線があるか、というと微妙ですが、ほかの芸人とは一線を画す目を持っているようには思います。少なくとも、松本人志よりは、人間性に言及しているように思います。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8386569

http://www.youtube.com/watch?v=NjjOU3KmKiM

更生施設を題材にしたコントが面白かったのですが、ネット上には見当たりませんでした。

by 広田 (2011-05-27 09:54) 

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)

彦坂様

大変お忙しい中、今回も一円も取らない無料記事を書いて頂き感謝致します。ありがとうございます。

>初期のエディ・マーフィーの冗談の毒は、人種差別や女性差別の満ちていて面白かったですが、そういう危険さはテレビで放映できる範囲の中に囲い込まれている日本のコメディアンには求めようのないものです。

90年代の松本のコントには、差別、女性蔑視、世間的タブー、理不尽な暴力、など危険な要素を含んだ内容がたくさんありました。TVの自主規制の限界にまでチャレンジしていたのですが、ゼロ年代に入り、あくまでTVは視聴者のためのモノであって表現者が価値を置く場所ではない事に気づき、意気消沈してしまったようです。

芸術と鮮度の問題ですが、松本の笑いに芸術性が無く、時間が経てばすぐに腐ってしまう生モノのデザインであるとのご指摘は、私にはまだ結論が早いように思っています。20年前の松本のコントDVDが未だにTUTAYAに陳列しており、高校生など今の若い人が好んでレンタルしている訳ですから、さらに先の未来には笑いの漬け物として熟成され、現在よりも広い層から指示されるコメディアンとして評価される可能性はあるのではないかと思っています。

モンティ・パイソンは未見です。
今度レンタルして観てみますね。




by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-05-27 13:12) 

どいけんorDoiken

お忙しいと思いますが、質問があります。

お笑いと言えば、「落語」もその分野ですけれど、「落語」を芸術という目線
からはどのように判断されるのでしょうか。もしもお時間があれば、是非とも
お聞きしたいです。

例えば立川談志さんの噺は、
人間の空虚性を認めたうえで、その気晴らしとと主張して話すのですから
ローアートなのでしょうか。 

by どいけんorDoiken (2011-05-27 19:47) 

ヒコジイ

広田様
ご質問ありがとうございました。
ご紹介いただいた千原jrのコントは、《原芸術》《芸術》・・・という概念のはしごがあって、これは芸術です。面白いと思いました。


by ヒコジイ (2011-05-29 00:01) 

ヒコジイ

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)様
ご指摘、ごもっともだと思いました。レンタルビデオ屋に行っても、お笑いは借りた事がありませんでした。
私の好きなコメディがアングロサクソン系のせいかもしれません。
一応、今晩行ってみて、ジャケットを見ましたら、いくつか、面白いのを見つけたました。明日また朝が早いので、今晩は借りられませんでした。見てからブログでお返事書きます。

by ヒコジイ (2011-05-29 00:06) 

ヒコジイ

どいけんorDoiken様
ご質問ありがとうございます。
私も落語は大好きで、子供の頃からラジオでですが聞いてきています。ブログで取り上げて書きたいと思います。
by ヒコジイ (2011-05-29 00:08) 

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