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志村けんのバカ殿様とダウンタウンの2重生活(校正1) [アート論]

 毎週京都と東京を往復しているというのも、バカな事なのですが、バカついで『志村けんのバカ殿様 大盤振舞篇 如月の巻』を借りて見ました。


 昨日は台風が来ている事もあって、大雨の所が多く、ドライブも危険なので、同乗者の栃原比比奈さんは少しだけの運転で、IPhonでのナビゲーションに徹してもらって、私がほぼ全部、藤沢から京都府京田辺までを運転しました。
 
 レンタルビデオ屋にいったのは、コメントをしてくださった笹山さんのご推薦のダウンタウンを見ようと、「ウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 15周年記念DVD永久保存版 2 対決 』を借りて、ついでにバカ殿様を借りたのです。

 この志村けんのDVDは、ジャケット段階で芸術になっていて、しかも《超次元》〜《第6400次元》になっていました。それに対してダウンタウンのDVDジャケットは、すべてデザインでした。

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 志村けんのこのジャケットには《原-芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《形骸》《炎上》《崩壊》の芸術概念の梯子があります。
  ただし《世間体のアート》はないので、世間体的には《芸術》として認知される事はありません。

 言い換えると、彦坂尚嘉が言う《原-芸術》や芸術の概念梯子というのは志村けんレベルを含む事であって、たいしたものではないのです。一昨々日に会って話していたAさんが、芸術を神だと言って、私がそれを否定していたのですが、芸術と神は同一ではないのです。芸術を神格化してかたることは、私から見れば間違いです。

成熟した志村けんの芸は、『アートの格付け』としても《超次元》から《第6400次元》まであって、すばらしいものです。
しかし《世間体》の内側では、こうした評価は起きないのです。つまり認識というのは、世間体を基盤にして考えるのか、《世間体》という社会通念の外で認識するかで違うものなのです。

ソクラテス以来、哲学の基本は、この社会通念を基盤にした認識を疑う所から展開しています。

同様に、科学的認識というのも、アリストテレスでも、ガリレオでもよいですが、社会的通念の外部に出て、認識を展開してきたのです。

哲学的であり、科学的であったとしても、だからといって《世間体》や社会的通念がなくなるではなくて、私たちは2重性の中で生きているのが現実であります。つまり社会的通念の中での認識と、外部での認識です。

志村けんを、芸術ではないとする《世間体》の認識も重要であり、そして彦坂尚嘉のように、志村けんの成熟したお笑いの中に、《芸術》を見いだすという事も大切な認識なのです。この2つの認識は、折り合う事無く、同時表示されるのです。

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ダウンタウンのこのジャケットは《第6次元 自然領域》のデザインです。ですから東京都現代美術館の長谷川祐子氏であれば、これこそが今日のアートであると太鼓判を押すでしょう。実際にダウンタウンのDVDは大量に出されていて、Jカルチャー化しているのです。

私にとっては、ちっともおもしろくないコントですが、しかし私の意識の外にあるダウンタウンとというのは重要なものであると考えています。私見で申し上げれば、このような抽象化された無意味性を、今日ではアートと考えているのではないでしょうか。無意味性や、禅がいう《無》というものが抽象化され、イメージ化され手いるということが、今日の高度消費社会の流通空間に蔓延しているという事と、たとえば村上隆のネタにある白痴性とは通底しているのだろうと思います。


 京都と東京を往復しているというのには、何人からか疑問の声をかけられています。もちろんこれでポックリと死んでしまうとか、事故死してしまえばバカが事に過ぎない事ではあります。しかし疲労のなかで落ち着かない生活をしていることは重要なことであると私は思っています。ダウンタウンの上品で洗練されて薄っぺらなデザイン的芸風と、志村けんの、特に成熟して《第6400次元》にまで達した芸術と化した驚愕的におもしろい下品な超重層的なお笑いの差というのは、私には非常に興味深いものであって、それは今日の現代アートの薄っぺらなデザイン作品と、レオナルド・ダ・ヴィンチをも含んで残る歴史的名品の凄さとの2重構造なのです。人類の歴史とか文明とか、文化や芸術は、こうした2重性によって成立し、そしてこの2重性が入れ子構造を形成して《第6400次元》までに多層化しているのです。

 彦坂尚嘉の2000年代というのは、越後妻有トリエンナーレに4回参加する事で,事実上新潟と鎌倉の2重生活をしていました。そうする事で、越後妻有トリエンナーレすらを無視して東京の銀座や京橋の画廊にたこつぼ的に自閉している人たちの外に出て行ったのです。ダウンタウンや志村けんを見て、それを芸術やデザインの問題として考えるなどという事は、現代美術や現代アートの多くの人は、たぶんしないと思うのですが、重要な事は芸術界とか美術界とかの内側だけで物事を考えるという自閉性の外に出る努力をして行く事なのです。

 2カ所にすむという事が今日の生活のスタイルではないかという事を昔に読んで、共感したのです。別荘を持った生活という事であって、理想的にはニューヨークと東京に2つアトリエのあるような生活です。
 
 つまり重要な事は落ち着いた生活を良しとするのではなくて、落ち着かない生活を現在の理想の生活とするような考え方です。

 そのことは芸術にも言えて、高級芸術とキッチュ、外国芸術と国内芸術というような区分の元に、一方を切り捨てて、高級なものに立てこもるような自閉性が問題なのです。

 とは言っても、人それぞれですから、各自が各自の生活スタイルと、そして思考パターンの中で生きて行くのは自由なのであって、そういう多様な各自の自由を認めて、干渉しない事が大切です。
 そして共感できる思考とライフスタイルを持っている人同士が連携して行く事が重要であって、価値観も、ライフスタイルも違い、美意識も違う人と、我慢して無理矢理につきあう必要の無い時代に私たちは、今、生きているのです。
 
 無限の自由と、無限化する分裂を!

別のブログで書きますが、こうした分裂の多様性は、あくまでも表層だけに起きている事です。彦坂尚嘉の理論では、人間は4重の歴史構造を生きているのであって、最新部は絶対零度の原始史層であって、ここでは凍り付いていて、不動です。仏教の瞑想というのは、この自己存在の絶対零度の不動史層に下降する事です。この様な下降は、いつでも出来ます。自動車を運転していようが、絵を描きながらであろうが、コンピューターを打ちながらも可能なのです。

 つまり、どれほど落ち着きの無い生活をしていても、それはあくまでも表層だけであって、上層、中層、深層には違う歴史が流れ、中層や深層には落ち着いた時間が流れているのです。だからこそ表層に《形骸》《炎上》《崩壊》があふれていても気にする事は無いのです。


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白蓮

個人的に仏教の瞑想をしていたのですがそれによって現れる静止した無の世界をそこに意識を置いたまま例えば都市などの喧噪した世界を同時に見ることが大事だと思っていました。
そういった意識の多重性を生きることが“面白い”ことであって一つの層に限定された意識を生きることは退屈でつまらないことなのだと思っています。
by 白蓮 (2011-05-30 17:59) 

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)

彦坂様

面白い記事をありがとうございました。

>『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 15周年記念DVD永久保存版 2 対決 』

これはコントではなく「企画」ですね。
youtube動画も比較的最近放送された「企画」です。

松本人志を語る上で、「漫才」「フリートーク」「企画」「コント」とこの四大要素を初期、中期、後期で見分けて判断して頂かないと、学術的には正確にダウンタウンをご理解頂いた事にはならないと思うのですが、流石にそこまでの時間はありませんよね。

芸術界/美術界の内側だけで物事を考えるという自閉性の外に出る努力をされている事は大変素晴らしいと思います。是非次回は「恋愛シュミレーションゲーム」にチャレンジしてみて下さい。
by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-05-30 20:33) 

Savy ou

《第4600次元》というのは《第6400次元》の創造的誤植でしょうか?
by Savy ou (2011-05-30 21:42) 

mozhaiskij

大人でも子どもでも笑える志村けんと、俺のお笑い(芸術(笑))を理解出来ないやつはダメ呼ばわりするダウンタウン=松本人志の守備範囲の差がよくわかります。
by mozhaiskij (2011-05-31 00:28) 

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)

彦坂様

人様のブログであまり多量にコメントをするのはマナーが悪いと承知の上で、「笑いは芸術か?」の質問を投げかけた張本人として、今回の無料記事に対する私見をもう少し詳しく書かせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。



彦坂さんのように、松本の笑いに嫌悪感を抱く人は皆口を揃えて「意味が解らない、無意味だ」と言うのですが、松本人志という芸人ほど笑いの意味性、構造を学術的に分解して研究した人間はいないでしょう。これは芸術作品を観て「これのどこが素晴らしいの?意味が解らない」という人に似ていて、興味が無いだけで切り捨ててしまう教養の無さの現れです。勉強家である彦坂さんのこのような反応は大変残念でありました。



志村けん/松本人志、では世代が2区切り違います。

志村けん(ザ・ドリフターズ)というのはお笑い第一世代で、松本人志はお笑い第三世代です。この世代間の違いが障壁となって笑いを共有できないのかもしれません。しかし松本人志の笑いはけして高尚なモノではなく、貧困層の反骨精神が生み出した産物です。ロックが好きな人間ならばきっと価値を共有できると信じています。



芸術とは何か?という大きな設問を、私なりのレベルで簡単に説明しますと、 それは赤ちゃんが誕生したとか、夕日が綺麗だったとか、宝くじが大当たりしたとか、鼻を噛んだティッシュを丸めて投げたら上手くゴミ箱に入ったとか、そういう日常生活の圏内で起こる感動を超越した次元の中で生まれる心の揺さぶりではないかと思います。

彦坂さんが絶賛するバカ殿のコントは、とんでもない設定なのですが、良く良く考えると「お見合いの相手がブスだった、若すぎて話が合わなかった」など老若男女、一般大衆が理解できる範疇で作られた、日常生活で起こりうる「普通の笑い」のレベルでしかない無いと私は思います。言い換えれば3.11以前の、根拠のない安全神話の中で生活してきた多数派の人間に向けられた笑いなのですよね。

松本人志の笑いの発想というは、その安全な日常生活の外へと飛び出した、危険な世界(言い換えれば芸術領域)で作り出されたものだと思います。だから多数派の人間が根拠もなく拒絶するのです。拒絶とは己が理解できない事象への恐怖心からくるものです。

上記の理由から私は、志村けんはエンターティナーで、
松本人志は芸術家であると主張します。


by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-06-01 02:13) 

ヒコジイ

白蓮 様
コメントありがとうございます。
自分が理不尽にも生まれて、そして問答無用に死ぬという限定性も含めて、絶対に変化しない不動の部分があって、ここに直接に下降する事は重要な事です。このことが仏教的な瞑想であると思います。私は学生時代には仏教研究会をやっていました。高校生の時に、中村元の『ブッタの言葉』が出て、それまでの中国語を介しての仏典ではない、サンスクリットからの翻訳が始まった時でしたので、その影響下で育ったのです。
by ヒコジイ (2011-06-01 06:43) 

ヒコジイ

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)様
コメントありがとうございます。ご批判、ご教示に感謝します。ご紹介いただいた初期のコントは、すばらしいですね。《原-芸術》があって、しかも《第6400次元》までありました。
志村けんのバカ殿様が、既知の基盤の上で成立しているとのご批判も正論だと思います。
その外に出ている松本人志という評価軸も、理解できます。今日の《デザイン》の問題を考える上でも、重要なご指摘です。
別のブログで、再考させていただきたいと思います。
by ヒコジイ (2011-06-01 06:59) 

ヒコジイ

Savy ou様
ご指摘ありがとうございます。あいかわらず誤植でして、恐縮です。直しました。
by ヒコジイ (2011-06-01 07:17) 

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