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中村亮一の絵画 [アート論]


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中村亮一

某氏より個人メールで、次のようなものをいただきました。

ブログではお世話になっております。
もうご存知かもしれませんが、最近また興味深い画家を見つけたので、ご紹介致します。

アート情報誌「art_icle」という雑誌が行った公募展で「アーティクル賞」というのがあるのですが、
そこで今回グランプリを受賞された中村亮一さんの作品が、東日本大震災を想起させる内容なのですね。
http://www.art-icle.jp/4th_art-icle_award_result.html

中村さんの事は初めて知りましたが、
彼のHPを観ると、このシリーズ作品は震災以前から描いていた事が解ります。
作家自身の心象風景であるそうです。
http://www.ryo-art.org/recenwork_apocalypse.htm

震災後間もないので、中村さんのような被災地を思わせる内容の絵画に注目が集まるのは解ります。
「だから何?」という感じもします。今後も、しばらくこのような作家が多く取り沙汰されるのでしょうか。

○○

中島亮一氏は、1982年東京生まれの方です。

ネットにある経歴によると、東京造形大学を1年で中退なさっています。なぜ中退なさったのかという事情は書いてありませんでした。

一般的に言えば、東京芸術大学を含めて、今日の関東の美術大学は、芸術を厳密な学問として、研究的、分析的、美学的に教えていません。

芸術そのものが、もはや分からなくなっています。ですから、キッチュを成立させる技術は教えているのですが、しかし芸術を作る技術を教える所は無くなってしまったのです。

相対的にましなのは京都系の美術大学でしょう。京都画壇の水準は、関東画壇よりは現在においても水準は高いのです。それは東京文化圏よりも、京都文化圏の方が文化的な蓄積が厚くあることによります。

さて、そういう中で、彦坂尚嘉が主催するE-learning ArtStudy 6400は、京都に拠点を置いて、藝術を研究的、分析的、美学的に通信教育で教えようというものです。お手本にして考えるのは建築家のコルビジェです。彼はモダンニズム建築の作り方の考え方を教えています。E-learning でそのような教育が何処まで出来るのか? という疑問をもたれる方のお気持ちは分かりますが、その限界は、印刷物のテキストの刊行と、スクーリングを行う事でカバーするつもりです。スクーリングではゲストをお招きして、彦坂尚嘉個人の外の刺激的な意見も導入したいと思います。しかし最終的な細部の技術教育というものは、コルビジェの場合にも無給の徒弟制度でした。コンクリートの打ち方というような具体的な技術は、徒弟制でしか教えられないというのです。しかし、その前の、基本的な考え方や方法についてはイーランニングシステムで伝えられるものなのです。それを超えた具体性は、各自の勇気ある試行錯誤が未来を切り開くのです。

中村亮一氏は、しかし私のいる京都にではなくて、ヨーロッパに向かったのです。それもドイツにです。

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中村亮一氏は、20歳の時、2002年頃に単身ドイツに渡り、ベルリンを中心に、展示・作家活動を行って、2008年に帰国したとのことです。

ドイツでの経歴は書かれていません。

ドイツの美術界は、私の伝聞の知識では正確ではないかもしれませんが、上流と下流の美術界に2重化していて、上流のギャラリーに入るの難しいはずなのです。この話は木村太陽氏がドイツにチャレンジしてうまくいかないという話を、木村太陽氏がドイツに行く前に所属していたギャラリー山口からの情報として聞いています。ドイツの美術界も、入り口を間違えると、なかなか入り込めなかったはずです。入り込めれば、中村氏も日本には帰ってこなかったでしょう。

そして日本に帰って来た中村亮一氏は、2006年から作家活動とともに、ギャラリー156で、アシスタントとしてアートビジネスの経験を積んでいるというアーティストです。

このギャラリー156というところが、木之庄という人物の企画で動いているようなのですが、中村亮一氏と同じ傾向の作家を
集めています。

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というわけで、中村亮一氏というのは、実は特異な個人作家というよりは、こういう似た傾向の作家の一人なのです。こうした傾向というのは何なのか? ということを語ろうとすると、藝術分析をしなければなりません。しかしそういう事をして良いのでしょうか?

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中村亮一

今回、中村亮一氏が、アート情報誌「art_icle」という雑誌が行った公募展で「アーティクル賞」のグランプリを受賞されたのことです。

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中村亮一氏の絵画に魅了される方は、私に個人メールをくださった方のように存在しているのですが、その理由が、東日本大震災を思わせる主題性にあると考えるのは一つの答えです。その事は確かに無視は出来ない主題性であります。

しかしそれ以上の今日的な構造が存在していると、私は考えます。しかしそれを、あからさまに語る事をできるのでしょうか?

【続きは下記をクリックしてください。】
paradox-of-life-I.jpgこの無料ブログで、中村亮一氏の詳細な藝術分析をしてもよいのですが、日本の現代アートを「Jアート」と呼ぶとすると、「Jアート」には批評や藝術分析はいらないのです。

 それは「Jアート」に限らないのですが、日本の常識は世界の非常識と言われるように、日本の国内の文化=Jカルチャーは閉じているのです。それは一つの宗教集団であると考えられます。全ての問題が、みんなで信じるという日本の世間体の形成に向かって収斂していくのです。そこには芸術分析も、美術批評も入らないのです。入らないどころか、邪魔なので、排除するのです。

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「精神的信仰心が日本人特有の国民性をつくりだす」


―中国ブログ


2009年4月3日、中国のポータルサイト「新浪」のブログページに、日本人の国民性と信仰の関わりを考察した文章が掲載された。
日本人に最も愛されている花と言えば桜だ。日本には法律で定められた国花はないが、一般的には桜と菊と言われている。ブログの著者は「日本を象徴するのはやはり菊」とし、「菊花紋は、最高権威である皇室の象徴。皇居正門にも靖国神社の正門にも、菊花紋があしらわれている」と説明。これに対して、桜は庶民を代表する花で、菊のような高貴さや神聖さはない。だからこそ、日本人の「心のよりどころ」ともいえる桜への思い入れは、菊よりも深いのだという。

著者は、かつて自国の友人が「日本人は表面的で、ウソっぽい」と言ったエピソードを交えて、「日本人はどこで会っても愛想がいい。その礼儀正しさ、謙虚さ、真偽不明の笑顔こそが日本人の国民性」としている。国家の発展とともに今日の国民性が形成されたが、これらは日本人の信仰心とも結び付いているという。

日本人が好きな言葉に「一生懸命」がある。勉強にしても、仕事にしても「がんばります」とよく使う。口に出すことで、あえて自分に負荷をかけるのだろう。言うことも、することも、本心をカモフラージュする日本人。

しかし、人間は永遠に自分を抑え続けることはできない。「抑圧から自分を解放する一つの方法が、精神的信仰心を持つこと」と著者は分析する。

日本での長い暮らしの中で、様々な日本人と出会い感じたこと。それは、「精神的に何かを信仰する心が背景となって、日本人特有の国民性がつくりだされていることだ」とまとめている。(翻訳・編集/SN)

 分かりやすく言えば、敗戦後の日本文化Jカルチャー全体が新興宗教の文化祭のようなものなのです。
 
 戦時中の大政翼賛会の伝統が生きていて、言論統制がなされているのです。つまり国家社会主義の国であった過去が、今日も続いているのです。日本は、国家社会主義/ファシズムの国なのです。「みんなで信じれば怖くないというビートたけし型の《信仰の自由の中に立てこもっているのです。





 しかし日本にも、アメリカが押し付けた日本国憲法がわりますから、人類史に立脚した批評の自由や言論の自由建前的には保証しているのですが、しかし現実的には何となくむずかしい空気があるのです。日本の6割は、言論の自由を、実際にはよくない事考えているのです。その背後には、戦前の国家神道という天皇主義の新興宗教が、敗戦後も姿を隠しながら潜在し続けているからです。

   「Jアート」には批評はいらなくて、必要なのは信仰心なのです。ですから美術評論は提灯記事と、世間体をなぞる日本的世評の常識の繰り返しなのです。

 3000倍の軍事力の差があるアメリカと戦争をして広島/長崎の被爆体験を生み出した構造は、戦後も継続して、原発は絶対に安全であるという宗教的な信仰心に依拠して、今回の福島原発事故に、日本的信仰心と確信の破綻は再現されたのです。

今回の被爆は、日本人自身の社会構造と文化構造が生み出し至り着いた結論なのです。あきれるばかりです。

この結論を前にして、あらゆる批評は息が絶えるのです。

日本的常識は全人類の歴史としての学問性や批判性を欠いているのです。だからこそ信じる者は救われるのです。信仰心こそが、日本人を救い、安らかな人生を送らせるのです。


 中村亮一氏は、せっかくブランプリを受賞されたのですから、このチャンスに作家としてJアート界の中で大きくなられていかれるのが良いのです。大切なのは中村亮一氏自身が、自分の作品を信じる事なのです。そしてまた観客やコレクターが、中村亮一氏の絵画の優秀性と傑出性、その独創性と今日性を信じる事なのです。信じれば成し遂げられるのです。皆で信じれば、芸術は成立するのです。それが日本の芸術の心なのですから。



信仰心というものは、ジャック・ラカンの精神分析の用語を彦坂尚嘉的に流用して言えば、《象徴界》の次元にあるものです。


それは日本教だけではなくて、キリスト教であろうと、ユダヤ教であると、イスラム教であろうとも同じ《象徴界》のさんぶつなのです。


この《象徴界》を否定するものが、彦坂尚嘉の理論では《現実界》なのです。そして《現実界》を出現させたのは、数学に基盤を置いた自然物理学=単純系科学だったのです。


分かりやすく言えば、信仰という《象徴界》から藝術を解放したのは、数学と科学であったのです。そして《現実界》への還元に目標を置く現代芸術が出現して、20世紀芸術を展開したのです。


今日の情報革命は、原爆と原発を生み出した単純系科学を否定して、乗り越えた所に生まれます。


それは同時に、《現実界》への還元を目的にした現代芸術を否定して、新しいサントームを目的におくアートに向かっているのです。


彦坂尚嘉的に言えば、それは「スーパー・マルチレイアード・アート6400/super-multilayered art6400」へと展開するのです。


その未来への、飽くなき展開を目指す芸術的アナキズムと、その反動として想像界へと回帰する美術。さらには前近代である固体美術へと退化するキッチュは、実は、新しいアートと、正反対の背中合わせにあるのです。


さて、問題は、つまりキッチュにあるのです。


キッチュをグリンバーグのように単純にアバンガルドとの対比を対極主義に引き裂く事では、今日の新しい未来の文化を創出できないのです。


グリンバーグとは反対に、むしろキッチュの存在を容認し、キッチュと《真性の芸術》を同時表示していく共存性にこそ未来はあるのです。


【続きはFC2のブログに書き次いでいきます。書き上がったらお知しらせします。】

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瀬越義満

”The Elegant Univers”, ”The fabric Of The Cosmos ” の著者で、超弦理論・M理論に深く貢献している科学者でもある Brian Greene が、その新しい著作 ”The Hidden Reality" のなかで、完全にスペキュラティブな領域に入り込んでいっている現在の物理学が、その存在の前提となっている数学自体の根拠を問いだしているようすが描かれています。前二作は日本でも訳されて出ていますので、この新著もしばらくすると出ると思います。大変に刺激的です。
by 瀬越義満 (2011-04-29 10:30) 

ヒコジイ

瀬越様
コメントありがとうございます。
ブログで取り上げます。
by ヒコジイ (2011-04-30 07:53) 

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