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《超次元》〜《第6400次元》シリーズ2(加筆1) [気体分子ギャラリー]

彦坂尚嘉《超次元》〜《第6400次元》2.jpg

彦坂尚嘉 《超次元》〜《第6400次元》シリーズ2

このドローイングを見て、こんなもので、《超次元》から《第6400次元》まで出ているのか? あるいは、こんなもので《芸術》なのか? という疑問や疑惑をもたれる方は多いだろうと思います。

自分でも同様の疑問は持ちますけれども、彦坂尚嘉の《言語判定法》を使った芸術分析では《超次元》から《第6400次元》まで出ています。ですから、不安はもちますが、しかし自分自身ではしっかり確認できているのです。

が、他人を説得できると思っているのではありません。

このドローイングシリーズは、彦坂尚嘉の『アートの格付け』を認識の道具としてではなくて、制作の方法として、逆転させて使って制作しています。『アートの格付け』をする技術を使って,ドローイングを制作しています。だから《第6400次元》というものを出現させる最小のドローイングの探求の結果の一つが、このドローイングシリーズということになります。

《超次元》から《第6400次元》まである作品というのは、こういうものであると、他人を説得するのなら、自分の制作ではなくて、すでにある過去の名作を取りあげた方が、説得力があります。fc2の方で予定しているのは、歴史的に広範に存在している《超次元》から《第6400次元》まである作品です。

過去の名作の分析では読者を獲得できても、彦坂尚嘉が自分で制作して、それを良い作品であると証明しようとしても、誰にも信じてもらえないだろうと思います。しかし彦坂尚嘉は美術評論家として活動しようとしているのではなくて、それ以前に美術家として制作をして、その制作を自覚的にするために、芸術分析を展開してきているのです。ですので、どうしても自分で作品を制作するし、その制作が『アートの格付け』を制作技術としてなされるのは、必然なのです。

しかし、すでに述べたように、それでもってこのブログの読者や作品の観客を説得する事はできません。ではどうしたら良いのか?

そもそも観客をどのようにして説得しうるのか?

観客を説得する技術の一つは、制作の持続と、量であると言えます。それが全てではありませんが、一つの方法です。ですから、このブログを読んできてくれた読者諸兄には退屈で申し訳ないのですが、しばらくこのドローイングシリーズが続きます。ある意味で我慢比べになります。

ただ私自身は、皆さんが思う以上に制作する事は好きで、作品が重要だと考えています。晩年に作品制作に集中して行く事は、私のやりたい事であります。残された時間を制作に集中して行く事で、このブログの読者がゼロになったとしても、それはそれで甘受すべき事態だと思います。

というような調子で雑文を書きながら、とにかくドローイングシリーズをしばらく続けたいと考えています。

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コメント 2

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)


観客をどう説得するかは難しい問題ですね。
アーティストが陥る罠がそこにはあると思います。

最小限の要素で創作された作品では多くの理解者を掴めない、ではどこまで手を加えれば納得するのか?己の認識を一般に広めたい思いから作品は徐々にトランスフォームしていきます。

多くの観客の理解を得ようとすると、作品内容がどんどんエンタメ化していきますね。作品が広く支持されてくると、お金もたくさん入ってきて、仕事仲間も増えていき、作家は次第に性格が傲慢になってきて、いつしか敵視していた大衆に迎合し、自分の作品を評価しない少数派の方が悪いという逆転の思想になります。前回の話の続きになりますが、アメリカから支持された今の松本人志や村上隆が正にその状態だと思います。最初に自分を支持してきた少数派の理解者を今は敵に回しているのです。


ちなみに理解する、という意味の本質は「解る」という生易しい事ではなく「思い知らされる」という大きな打撃だと思います。丁寧に説明する必要などなく、もっと鑑賞者を痛めつけてやればいいのだと私個人は思っております。

by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-06-07 19:57) 

ヒコジイ

negaDEATH(a.k.a 笹山直規)様

コメントありがとうございます。お返事遅れて済みません。見損なっていました。

興味深いご意見だと思います。

観客の反応との往還関係で、最悪の展開を遂げたのは前田 常作です。勲章は色々もらっているので大成功したとは言えるのですが、芸術的な意味では面白い展開ではありません。

若い時に、この意味で失望したのはココシュカでした。若い時のココシュカは面白いのですが、晩年はつまらなくなる。

ミロにも同様の事は言えて、晩年のミロは最悪の売り絵画家に成り下がってしまいます。

人間が社会の中に生まれて、社会の中で展開するという事からは逃げられない故に、社会的な成功と、社会的な地位やポジションの獲得が重要なのは確かなのですが、しかしこの社会的な成功と、芸術的な達成がかならずしも一致していない。

観客は、自分に取っての快感しか追いかけていませんが、だからこそ観客を必要としつつも、これだけが基準にならないという問題があります。

今回の私のドローイング作品は、《超次元》から《第6400次元》までを、最小の手間で描き出すという意味では成功していますが、同時にそれはコンセプチュアルアートという枠組みの内側での者になります。言い換えるとハイアートという枠組みであって、理解出来る人は教養のある人だけと言う事になります。

もう一つの「日本むかし話シリーズ」は、ハイアートの枠組みの後の時代、つまりハイアートとローアートの統合性を追いかける表現になっています。とは言っても、これも観客を多く獲得する者ではありませんが(笑)。

ご指摘の村上隆
by ヒコジイ (2011-07-10 12:02) 

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