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志向性/6400次元の世界

志向性/6400次元の世界

2011年の3月16日に京都に疎開してから、《第6400次元》を見つけたのですが、見つけてから実例を見つけようとすると、幾つもの実物が見つかってきます。特に映画で、何本か見つかっています。新しい順に書いてみます。

ボーン・アルティメイタムThe Bourne Ultimatum
     2007年アメリカ サスペンスアクション映画
     監督:ポール・グリーングラス 主演:マット・デイモン

・『ジャーヘッドJarhead 
     2005年アメリカ 戦争映画
     監督:サム・メンデス 主演:ジェイク・ジレンホール

ブラックホーク・ダウン』(Black Hawk Down
     2001年アメリカ 戦争映画
     監督:サー・リドリー・スコット 主演:

カッコーの巣の上で』(One Flew Over the Cuckoo's Nest
     1975年 アメリカン・ニューシネマ

タクシードライバーTaxi Driver
     1976年 アメリカン・ニューシネマ
     監督;マーティン・スコセッシ 主演:ロバート・デ・ニーロ
         



ドイツの現代哲学者のフッサールによると人間には「志向性」というものがあって、その人が見ようとするものが見えるのです。言い換えると、見ようとしないものは見えません。

「マンガ」が好きな人には漫画が見えるのですが、「マンガ」が嫌いな人には漫画が見えないのです。私自身は、漫画を卒業してしまったので、今の時点で漫画を何冊も読む事はできない所があります。

「芸術」が好きな人には芸術が見えて、「芸術」が嫌いな人には芸術は見えないのです。東京都現代美術館の学芸員の長谷川祐子さんのように「アートとデザインの遺伝子を組み替える」というような志向性をもっていると、デザインの作品ばかりが見えるようになります。

そして「キッチュ」が好きな人にはキッチュばかりが見えて、「キッチュ」が好きでない人は、キッチュのものは無視して見えないのです。

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人は実に様々ですから、この趣味の違いは絶対的にあって、それを超える事は、特別に努力しない限りできないのです。多くの人は努力はしないので、どうしても養老孟司が言う所の「バカの壁」というものが存在していて、お互いに分かり合えないものなのです。

つまり人間は平等で、話し合えば理解できるという事はないのです。お互いの中にどうしても分かり合えない部分が存在するのです。その分かり合えない部分を作っている大きな力が、志向性の違いなのです。志向性の多様な違いが、人間関係を分裂させるのです。

今回の福島原発事故でも、志向性というのは重要なポイントになっていました。初期段階での東電や政府の対応のまずさが、大事故になったという指摘が方々からされていて、海外からも非難がありますが、それは政府が「原発事故は絶対に起きない」という志向性を強く持っていたからです。

日本国内での最初の原発爆発を見つけ確認したのは、福島県警のヘリコプター:ベル412EP「あづま」で、その情報はすぐに首相官邸に通報されたのです。がしかし、それをデマだとして首相官邸は黙殺したのです。その後、地上の警察官からも無線で「空中に白いものがたくさん舞っています・・・」という通報が入り、さらに「原子炉爆発を目視で確認」したというので、再度首相官邸に連絡をとるのですが、それも「福島県警はいいかげんな情報を流している」と非難して黙殺したのです(情報出典:「週刊文春5月5日12日合併号」26頁)。

つまり首相官邸の志向性は、原発事故を想定するどころか、「対に原発は安全である」絶という志向性に絞り込まれていたために、事故の第一報、第2報を、福島県警の風評であり、デマであるとして非難して黙殺するという選択をしたのです。

ある志向性があると、事実を事実として認識する事ができないで、現実に対応する事が遅れて、致命傷になるのです。福島原発事故は、初期の手当をしそこなう事によって、もはやどうしようもない手遅れになったのです。日本は脳溢血になって、解決不能の障害者になったのです。

ことほど左様に、人間は志向性によって、見たいものを見て、見たくないものは見ないようにしているという生物なのです。その結果が致命傷になるものであっても、人間は見ようとしなくて事故に遭い、滅びていくものなのです。

ですから《第6400次元》というものも、見たくない人にはまったくく見えなくて、価値のないものであるのですが、私のように《第6400次元》にまで至る人間精神の厚みが好きな人には、よく見えるようになってくるものなのです。このことは、埋め合わせはできないのです。



2、チャネリング

《第6400次元》の実物発見の最初は、ヘーゲル、カント、ニーチェの顔でした。西欧の大哲学者の顔には6400次元がありました。見つけて納得したわけです。実際彼らの顔は、凄まじい顔をしているのです。


ヘーゲルの顔.jpg
ヘーゲル

カントの顔.jpg
カント

ニーチェの顔.jpg
ニーチェ

ヘーゲルのような哲学者の顔は、なぜに凄い顔をしているのか?

電車に乗っている時に、車内にいる人の顔を観察していると、多くの人の顔は、肉の上に薄い意識がくっついているものであって、人間の身体の隅々まで意識が根をはっているような深さがありません。身体という肉はあるのですが、意識が、その肉の不透明な固まりの上の皮のような薄さしかない。つまり肉である身体はあるという動物性はあるのですが、動物を超えて、自分の肉体という身体に根をはって、隅々まで自覚的に生きているという、そういう精神性が無いのです。

もちろん、そうではない人もいるのです。はっきりと人格があって、精神が存在している人物も多くいるのであって、その人たちだけを見ていれば、それほどの違和感というものはありません。つまり人間には、大雑把に言って2種類の人がいて、精神的な存在性の深みのある人間と、動物であるに過ぎない人間の2種類です。その中でヘーゲルやカント、ニーチェのような人間は、精神としての人間存在を強く出している顔を持っているのです。それが《第6400次元》までの顔であるという意味です。


その直後に、元チャネラーのAさんが京都の私が滞在する中川晋介さんの実家に疎開していらっしゃいました。「チャネリング」というのは、高次の的存在や神、あるいは死者、霊界人、さらには宇宙人、未来人など常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手コミュニケーションをすることです。分かりやすく言えば「迷信」の世界であり、《想像界》の次元であると言えます。こうした「迷信」は、科学の時代になった近代においては否定されて迷信は排除されたのですが、しかし文明以前の原始社会では、こうした呪術は、立派に社会的な精神として成立していたのです。つまり現代社会にも、原始や野蛮と言われた精神世界は生き続けているのです。

 あなぜに彦坂尚嘉のところに元チャネラーの人が来るのかというのと、私は、こういう歴史的に過去に根拠を持つ精神を、差別も抑圧もしないからです。だからといって今日の世界で、こういう古い精神世界が有効であると思っているわけでもないのです。今日では、複雑系の科学と情報理論が有効な識字であって、あくまでもその次元性が重要であると思っています。しかしだからといって、古い呪術の精神や、キリスト教等の世界宗教の精神性を否定したり、排除はしないというのが、私の立場なのです。

 Aさんとは京都駅で会ったのですが、彼女の顔が、何と《第6400次元》でした。これには驚いて、私はすぐにトイレに行って自分の顔を見た所、私の顔も《第6400次元》でした。

 近代の代表的な哲学者であるヘーゲルと、呪術的なチャネリングをするAさんが同じというのも変な話に聞こえるでしょうが、格というのは、《第1次元 社会的理性領域》というものが上であって、後はどんどん下がっていくだけなのです。ですから《第6400次元》というのは、最下層の下劣な人間性なのです。

 私がブログの初期に言っていた《第41次元》という領域、正確には41次元から50次元という幅がありますが、この領域は、それだけ下品であるということになります。

気体分子ギャラリーでの最初の個展は伊東直昭さんでしたが、気体分子ギャラリーに出品してもらった作品は《超次元》《第1次元 社会的理性領域》から41次元まで全てある作品でしたから、それは下品とは言わないのですが、最近伊東さんがブログで描いている《41次元から50次元》だけの作品になってくると、それは下品でありキッチュであると言えます。

ですから《第6400次元》まであるといっても、重要なのは実は《超次元》《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》までという基本構造をもっていることが重要なのです。

その上で、《第6400次元》という人間の下劣さまでに下降しているヘーゲル的な広さや深さがあると、その多重性が評価の対象になり得るというものなのです。

Aさんの場合、《第8次元》の信仰領域から、《第6400次元》まであるという人格で、つまり《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》という基本の人格が無いのです。これは問題であると言えます。

とは言っても、実は10人中6人くらいの人には、実は《第1次元 社会的理性領域》〜《第6次元 自然領域》という重層性は無くて、《第6次元 自然領域》だけか、《第8次元 信仰領域》だけだけの単層の薄い精神性なのです。あるいは、もう少し厚くて《第6次元 自然領域》から《第8次元 信仰領域》という3層くらい人が大多数なのではないだろうか? というのが、電車の中で人を顔を分析して積み重ねて来た彦坂尚嘉の観察の結果なのです。(しかしこれは統計的手法を使った学問的な手続きをしていませんので、あくまでも私の観察の範囲での予想に過ぎないと、お断りをしておきます。

つまりAさんの顔に《第1次元 社会的理性領域》〜《第6次元 自然領域》の重層性が無いという事自体は普通のありふれたことに過ぎません。特別な欠損というわけではないのです。むしろ《第8次元》から《第6400次元》まであるという事が、傑出した才能なのです。

Aさんさんの幼児の時の顔写真も見せてもらいましたが、普通の子供の顔は《想像界》だけがあるのですが、Aさんさんの幼児の時の顔には《サントーム界》だけがあって驚かされました。小さい時から「大人の顔をしている」と言われていたようで、その意味で、普通の人物ではなくて、才能がある人だと言えます。

さて、次に見つけたのは、京都のタカイシイギャラリーでやっていた安井仲治の写真でした。続けて同じく写真家の野島康三でした。ここで初めて芸術作品として、《超次元》から《第6400次元》まである、分厚い、超多層的な表現にであったのです。

《第6400次元》の映画をさがし始めました。映画というのは、一本の作品を作るのに16億円とか、とんでもない金額で作られるものです。一番最初に見つけた映画は、すでにブログでも取り上げているポール・グリーングラス監督のボーン・アルティメイタム』でした。これは大変すぐれたアクション映画ですが、一番凄いのは見た事も無い激しいカーチェイスや、格闘シーンは目を見張るものがあります。


ボーン・アルティメイタム』の様な映画は芸術ではない。こんなものは娯楽映画でしかなくて、くだらないとして無視する人が多いと思いますが、そのような芸術観は《近代》特有の芸術観なのです。つまり《近代》の芸術観は、理性的で高級な精神性だけで成立する表現を芸術として囲い込み、反対の下劣で下品な欲望や娯楽性は排除する事で芸術になるのどというものでした。


しかし《近代》以前に戻って見れば、実は《第6400次元》の絵画は、ヒエロニムス・ボスや、ヴァンアイクレオナルド・ダ・ヴィンチなど、巨匠の絵画に見ることが出来るものなのです。

つまり《近代》以前においては、《超次元》から《第6400次元》までの総合性や超重層性をもった芸術はあったのですが、《近代》においては、《超次元》から《第50次元》までの上流芸術と、《第51〜100次元》までのキッチュに分裂したのです。つまり近代芸術というのは、キッチュとして下層芸術を切り離す事で成立した上澄みのような芸術だったのです。

しかし情報化社会に入って、パンドラの箱は開いて、下層のキッチュと、上流芸術の再統合が実現したのです。

映画で紹介したいのは2つの戦争映画です。一つが激しい戦闘シーンの『』、もう一つは予告編の印象とは正反対に一切の戦闘シーンが無くて、主人公は一発の弾丸も発する事無く終わるという戦争映画の傑作『ジャーヘッド』(2005年)です。





映画ですと、まず『マッドマックス』の1です。これは最初に見た時も、深い感銘を受けましたが、再度見ても凄い名作で、改めて驚かされました。




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