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福島以降の高度消費社会の芸術理論(改題3大幅加筆5) [アート論]

20%80%の法則

20%80%の法則というのがあります。
自然の中にある秩序です。

たとえば、ミツバチの巣の中の働き蜂を観察してみると、20%は一生懸命に働いているけれども、80%の蜂は、働いているフリだけをしているというものです。
これはパレートの法則といわれるものです。

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ミツバチの巣の観察は、イタリアの経済学者のパレートという人が発見した所得分布の法則であるそうです。
社会全体の2割程度のお金持ちの人々が、社会全体の所得の約8割を占めているというのです。つまり社会の中の2割のお金持ちの人が、8割のお金を持っていて、残りの8割の貧乏な人は、社会全体の2割のお金を、分け合って持っているという法則です。



無駄の意味は?

ミツバチの巣の中の80%の蜂は、働いているフリだけをしているというわけですが、このフリだけをしているミツバチは何をしているのでしょうか?

生産と労働が人間社会の中心であった時代においては、働く事が人間の本質であると考えてきました。しかし古代ギリシア社会では働く事は奴隷の仕事であったのです。ヨーロッパでは、農業は農奴という奴隷階級の仕事でした。アメリカ合衆国の歴史を見ても、農業労働は、アフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷の仕事でした。近代の労働構造は、鎖とムチで支配された奴隷ではなくて、労働者の仕事でしたが、労働者というのは、賃金奴隷だったのです。つまり金銭でしばられた労働が近代の生産形態であったのです。労働の根底には奴隷労働の位相の歴史があって、近代になると、賃金を軸にした新奴隷制に改変されたに過ぎないのです。こういう中で「生産と労働」が社会での中心であるとする考えは、実は労働が奴隷制の延長であるという事を無視する事で成立する論理であったのです。
 
 ですから働いているフリをしているミツバチの意味が理解できなかったのです。
 
 しかし自然の中の8割は、実は労働ではないことをやっていたのです。それが消費活動であり、遊びの活動であり、無意味な活動であったのです。それがフリの問題です。労働のフリというのは、働いている事ではなくて、《反-労働》的な別のことであったのです。
 高度消費社会になると、社会という活動を読み解く上で《消費》とか《娯楽》いう言葉が重要になった社会にかわります。人間の幸福というのは、労働の質の事ではなくて、消費の水準の高さが幸せな生活の基準になったのです。
 それは同時に芸術の価値変貌になったのです。かつてのモダンニズムの芸術理論が純粋芸術をの制作を目指したのに対して、1975年以降のアートの状況は、アートの消費を軸に回転するようになります。美術批評よりも、オークションの落札情報が重要になった状況は、アートというものが《消費》という言葉を軸にして回転する事になった事を意味します。つまりコレクターの消費欲望の主体としての台頭が、アートの基準を変えたのです。村上隆の台頭を可能にしたのは、まさに《消費》としてのアート制作の自覚化でありました。


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 パレートの法則が明らかにしたように、人間の会社の中でも8割の人々は貧乏なわけですが、この貧乏な8割の人々は、社会の中で何をしているのでしょうか。8割の人々の社会の中での役割の本質的な意味とはなんなのでしょうか。
 もちろん彼らは、奴隷的な労働をしているように見えます。しかし労働とは何かという定義に関わる問題ですが、コンビニエンスストアのレジで働いている人は、生産をしているわけではありません。
 農業や、工場生産に従事している人は生産とは言えますが、財務省の官僚は生産をしているわけではありません。
 農林水産業のような第一次産業と、鉱業や工業のような第二次産業は生産とは言えますが、サービス業である第三次産業での労働というのは、確かに労働ではあるのでしょうが生産とは言えない面を持っています。マネージメントという仕事もそうですが、この曖昧な中間領域には、様々な面があって、一概には生産とは言えない労働なのです。生産とは言えない活動、労働とは言えない活動が実はたくさんあるのです。同時に《消費》という言葉でも定義できないような無意味な活動が人間には多くあります。《消費》という言葉で見れば、抑制された低い活動をしている貧乏な人々も、総合的に見ると数が多いので、無視し得ないものがあります。しかしそれ以上に、人間存在そのものを消費しているような直接性があるのではないでしょうか。
 美術でいえば、美術作品を決して見ないし、美術や芸術の教養はなくて、美術を買う事はまったくしないで人生を終える人々の存在にむかって、美術の位相を持つ作品=アートグッツを果敢に打ち込んでいった村上隆の活動は、この《消費》を軸にアートを考える時に、そのターゲットというのは、この芸術の消失点ともいうべき下層の人々向けた消費作品の地平にあるのです。


無駄こそが大切ではないのか?

サービス産業が大きくなった現代では、よくパレートの法則が用いられるのですが、事象としてはつぎのようなものがあります。
ビジネスにおいて、売上の8割は全顧客の2割が生み出しているというものです。よって売上を伸ばすには顧客全員を対象としたサービスを行うよりも、2割の顧客に的を絞ったサービスを行う方が効率的であるというのです。
これが普通のビジネス書のアドバイスです。

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 顧客の2割の人々は、確かに8割を購買し、多く消費しているのですが、彼らは社会の中の特権階級であるのです。それはある意味では伝統的な存在であると言えます。伝統的な社会では王侯貴族のような上流社会の人間だけが過剰な浪費をしてきたのです。芸術というのも、この王侯貴族の高級な浪費の目的の為に、存在して来た面があります。それが伝統的な芸術作品ですが、近代になると、顧客層がかわって、プチ・ブルジュアジーに代わります。これがモダンアートの販売が目指した顧客なのです。
 しかし今日のアートが目指しているのは、すでに述べたように、アートを一生買わないような下層の人々に向けて制作されているという面があるのです。
 
 ですから、では無駄のように見られる8割の顧客というのは、何のためにいるのか、考えてみる必要があるのではないでしょうか? 
 古い社会の中では、農奴のような人々は、農業生産に従事する一方で、日常的な消費材は自給自足で生産してきました。日本で言えば、藁を使って草鞋や蓑などを作って生きて来たのです。このような自給自足の生活が、東京オリンピックがあった1963年くらいまで、日本の僻地の山村には残っていたのです。
 高度消費社会というのは、こういう社会の下層で農業や工業生産に従事する賃金奴隷とも言うべき人々までもが、日常品類を、自給自足ではなくて、商品を購入する消費活動として行う社会に変貌した事を意味します。つまり自給自足経済では、生産と消費が接合していたのですが、これが分離して、商品として流通する事を介した消費社会に変貌してしまった。古典的な自給自足経済の時代消滅以降の社会の変貌の中で、私たちは、大きな価値変動に見舞われる事になったのです。
 高度消費社会は、1970年以降になって出現してきます。1980年代になると、世界的にも食生活は変わって、グルメになってきます。国民国家の枠組みが緩んで、国境を越えて、日本の寿司や日本料理が世界の中に広がります。同様の事は日本の中にも起きて、美味しいヨーロッパ型のパン屋が、日本中に出来てくるようになるのです。
  さて、話が戻りますが、こういった高度消費社会の変貌の中で、この少ししか買わないか、一切買わないという無駄な8割の顧客に対する意識的なサービスの戦略が必要なのではないのか?
 買わない客や、少ししか買わない客に対して、いかにしてサービスをするのかを考え抜いてする必要があるのではないのか?
 美術の領域で言えば、美術作品を買う人々は、今でも特権階級の富裕層が中心なのです。この事実は変わりません。貧乏な人々は美術作品を買いません。しかしこの買わない人々こそが、美術史の先端に位置する顧客ではないのか? 買わない8割の人々に向かって、美術作品は制作されるべきではないのか?
 その時に登場する理論というのは、やはり消費アートの理論なのです。蓄積としての芸術作品ではなくて、流行として、短時間に、無料で消費されるアート作品。つまりフリーアートの作品です。

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 売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出しているとパレートの法則は言います。
では、全従業員の8割は、何のために存在しているのでしょうか。
この事を真剣に考える必要があると思います。
無能な従業員には、その特有の意味があるのではないのか?
積極的に無能である必要があると言えるのではないのか?

有能な社員と無能な社員を比較した時に、無能な人々の中にある要素、たとえば意識空間が《孤児》《群れ》《村》のように狭い、意識空間の温度が《絶対零度》《氷=固体》などのように低い、人間関係の結び方が《血縁》《地縁》などのように古いなどの特徴があります。これらの特徴は、歴史的には古い起源をもっているのです。こうした古さを再生産する人々が、生物史で言えばウイルスやバクテリア、原始生物のような原始的な生物が今日では活動して進化しているように、重要な意味をもっていているのではないのか?

絶対零度=原始時代の位相をもつ美術作品や、固体美術=前近代美術のような古い位相をもった現代アートといったものは、この情報化社会の中では、消費されて、蓄積されないアートとして重要な意味を持っているのではないのか?

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仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出していると、20%80%の法則は言います。
だとすると、無駄な8割の時間は、何のためにあるのでしょうか。無駄のためにあるというのは、なんなのでしょうか。
この無駄な80%の時間をいかに意識して無駄に使うかが重要なのではないでしょうか。
そもそも無駄とはなんなのか?
これを考える必要があります。

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全体の20%が優れた設計ならば実用上80%の状況で優れた能力を発揮する。
だとすれば、すぐれた設計ではない8割の役割は、なんなのでしょうか?
つまりすぐれていない80%の設計を、意識的にすぐれていないように設計する必要があるのではないのか?
たとえば、街の中にある市民のための凡庸な公園というのは、凡庸である必要があるのではないか?
街の中に建つ建造物の多くが凡庸な偽物であるのは、根拠があるのではないのか?


高度消費社会の芸術

こうしたフリとして存在する無意味な80%のミツバチの活動の問題は、人間社会のどこにでも見られるら原理なのですが、この原理は、いったいなんであるのか?
つまり8割の貧乏な人々は、何のために存在しているのか?
無意味な80%の設計は何のためにあるのか?
私は、答えの無いままに、長い間考えてきました。

 
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 結論で言えば、この社会の中の80パーセントの貧乏人の存在が、社会の中の新陳代謝を押し進めているといえるのです。つまり社会というのには新陳代謝が必要であって、その新陳代謝というのは、消費活動なのです。つまり無意味な80%というのは、意味そのものを消費しているのです。
 たとえば、今日の社会の中で、コンピューターをやらない人々は、仕事が無くなって退場して来ています。この退場が引退であったり自殺であったりするのですが、このような淘汰は、社会や歴史の新陳代謝には重要な事なのです。つまり高度消費社会の《消費》という概念の根底には、自殺する年間3万人の人々まで含まれるような闇が広がっていると言えるのではないでしょうか。
 私は消費ということの構造や意味を理解していなかったのです。
 街の凡庸な公園は、庭園というものを消費している。
 街の凡庸な建造物は、建築を消費している。
 昨日、リサイクルショップで流れていたサザンスターズの音楽も、《第8次元》のひどいものだとはおもいますが、しかし消費していく音楽という意味では、ものの見事に機能しているのです。
 いまさら、このような事を言うのは、私の古さや遅れを露呈させているに過ぎませんが、粗悪品や、ユニクロや100円ショップのような安物といったもの、凡庸な日本のテレビドラマ等々、このようなもの本質的な意味が代わったのです。
 社会や歴史が、生産と労働によって展開する時代にかわって、《消費》と《娯楽》によって展開する時代なった時に、価値が転倒したのです。消費を推進するためには、使い捨てをするような安物や、粗悪品が重要で、結果としてゴミ処理ができなくなるような飽和に達するのです。
 芸術も同様であって、消費だけを肯定して、粗悪で、下品なキッチュが肯定される時代になった。そして美術館の活動はゴミ捨て場のようなものになる。しかしその事自体が、美術館を消費し、時代を押し進める消費なのです。
 実際に、民間のかなりの数の美術館が閉じられて来ています。このような閉館の拡大も、嘆くだけでなくて、《消費》の進展として評価し、新しい時代に進んで行くものとして歓迎する必要があるのです。

 日本人は完璧主義だと言われます。これは大変良いことなのです。しかし反面、戦略を実行ベースに移行した時、ついついあれもこれもとなってしまいがちで、総花式になってしまいます。そして、最後になって今回の戦略の最も重要ポイントは何だったのか?というようなことが議論になります。実は戦略を絞り込めば絞り込むほど、その戦略は成功する確率が高くなるのです。戦略を実行ベースに移す時は、「大切なものは僅かしかない」と腹をくくり、最重要ポイントから軸を離さないことが重要であるといわれます。これが従来のアメリカ流のビジネス書の教えでした。
 では、その逆を考えてみましょう。大切でないものというのは、何のために存在しているのでしょうか?
 つまり80%のものは手を抜いても良いのですから、徹底して手を抜く必要があるのです。街の公園の凡庸性は、徹底して手を抜いた結果なのです。その手を抜いても良い80パーセントというのは消費なのです。重要でない事もやらなければならないのですが、そこでは独創である必要は無くて、模倣行為を軽々と80%の量だけやるだけで良いのです。だからこそ、それは働くフリで良いのです。街の公園は、公園ではなくて、公園のフリで良いというわけです。

 つまり20%の大切な事だけを独創的に高い質でやって、後の80%は消費活動として模倣行為である働くフリだけを軽々とやれば良い。

 例えばメーカー企業で勤めているサラリーマンは、職務の上では生産者側でありますが、生活を営む上では必要な生活必需品を購入して生活しているので、消費者でもあります。農家の人は、農産物に関しては生産者でありますが、自分のところで収穫するもの以外の食料や衣服などは購入しているので消費者でもあるのです。よって、より広い意味では国民全員が「消費者」であるとも言えるのですが、この消費者のありようが問題なのです。

 実は人生というのは、この消費をいかに自覚してやるかなのです。凡庸に、消費するフリをすれば良い。美術品のコレクションをするという形で、消費活動をしようとすれば、実に平凡にコレクションをすれば良い。そうする事が、実は本業の2割の仕事を充実させ、活性化させる。人生にとって遊びこそが重要で、凡庸に遊ぶ事によってこそ、本業が独創的にできるのです。街の公園が凡庸である事によって、何かの2割が独創化するのです。

 買い物で言えば、1点豪華主義で良いという事です。その人にとって、重要な2割の事柄に関しては高い専門商品を購入しなければならないが、生活の8割は100円ショップの安物を買って、軽々と消費するので良いという事です。100円ショップというのは、今日の高度消費社会の象徴的な事象なのです。中村うさぎのようにブランド品に大金をつぎ込んで消費する必要は普通の人には意味が無いのです。大金をつぎ込むべきは、自分の本業にとって意味のある20%であって、それ以外はフリで良いし、偽物で良いのです。偽物こそが社会の中を流通する。なぜなら高度消費社会というのは、消費を中心に循環している社会であって、消費というのは、実はフリをしている事によって成立し、フリをしている偽物がより消費されていく。

 生物というのは、生産と消費の両方をしています。消費というのは、欲求を満たすために財やサービスを消耗することを指します。資源を使用することでもあります。生産の反対の意味の言葉です。つまりミツバチは働いて、巣を大きくして子孫を残すという生産をしているのですが、一方で、食べ物を食べて消費しているのです。消費が8割をしめるのであって、生産活動は、自然の摂理で2割しか出来ないのです。

 ライオンが狩りをしてシマウマを殺して食べるというのは、生産ではなくて、消費です。生物が食べる行為は消費活動であって、子供を産むというのは生産行為です。つまり食物を食べるという消費行為が重要なのであって、そして死ぬという形で、世代の新陳代謝をしています。戦争をやっても、死ぬ役割の人がいないと、戦争になりません。死ぬ人々は消費活動に参加しているのです。消費が無ければ新陳代謝は進まないのです。生物が死んでいかなければ、実は世代交代は進まないのであって、死ぬということも、消費活動として重要な活動な訳です。今回の東日本大震災でも、工場や家がたくさん壊れた事は、経済にとってはマイナスだけではなくてプラスとしても考えられるという事を経済学者は言います。つまり壊れたからこそ、新しい工場や家を建設できるというのです。福島原発事故も、事故を起こし被害が大きいという事は、単なるマイナスではなくて、大きな消費であったのです。福島原発事故によって死の地帯となる広大な地域もまた、消費として、次の何かを押し進めるためのものとして肯定的に見る必要があるのです。消費される事で、日本社会は新陳代謝し、歴史は大きく新しくなったのです。


 無駄というのは、実は消費行動の中心なのです。つまり社会の中にいる8割の貧乏な人々が、この社会の中の本質である消費を担っていて、新陳代謝を押し進めているのです。
 つまり芸術の問題で言えば、2割にも満たないすぐれた作品だけが美術史や芸術の意味を持っているのですが、しかし駄作の8割こそが、美術作品の消費の役割を推進しているのです。

 つまり美術や芸術を消費するという面で見れば、すぐれていない8割の美術作品が、実は消費の役割を果たしている。だからこそ売り絵というレベルの低い無意味な芸術作品が売れるのです。レベルの低い芸術こそが芸術の消費を押し進めているのです。ですから高度消費社会の中では、質の低い芸術が重要な社会的な役割を持っていると言えます。善い作品を作ろうとするのなら、悪い作品や低い作品をどのように作り得るかを真剣に考える必要があるのです。美術史というものは、実は美術の粗悪化の歴史です。同様の事は建築にも言えます。音楽にも言えます。粗悪化し、低レベル化していくことで歴史が展開するのです。同時にこうした芸術史の崩壊過程を認めつつ、この崩壊の事実を直視する中で、再度の高度な芸術が、奇跡のように制作されて来たのが芸術の歴史です。

 ですからすぐれた作品を作る事を考えたければ、すぐれていない8割の作品をいかにして作るかを真剣に考える必要があります。村上隆的な意味での芸術企業論の中心は、8割の消費材としての美術作品をいかにして生産するのかという方法の問題なのです。美術家の作る作品の2割だけが、真に重要で独創的な名作なのですが、これは売れない。売れるのは、その周辺にある8割のフリをした作品に過ぎないということです。実際に、巨匠と言われる作家を見ても、8割の作品は無駄とも言える低い作品であって、この低い作品が、実は売れていて、作家に金銭的な利益をもたらせるとともに、コレクターに深い満足を与えているのです。

 コレクターの8割は、美術を消費する事を、無意識であれ考えています。つまり何らかの自分の満足や欲望を満たすために買っています。作家の側の目で見れば、すぐれた作品が必ずしも売れないのです。コレクターはコレクターの側の欲望で作品を買っているので、必ずしも、善い作品を求めていないのです。

 子供を産まないメスの虎がいると、この虎は消費行為の補食だけをして、消費行為として生きて死ぬわけです。同様に子供を産まないオスの虎も、消費行為だけをして死ぬわけです。両方とも子孫を残さない形で、消費だけすることで、遺伝子上でいえば、虎族の未来を、間接的に作って行くわけです。つまり子供を作らないという事も、意味があるのです。そうすることで、ネガティブではありますが、進化の方向性を決める事に参加しているのです。

 生物の存在の中で消費が大きい事を考えると、80パーセントの働きバチというのは、消費行為を積極的にしているのです。生物における消費行為が無いと、生物界は作動していかないのです。無駄な行動こそが、実は消費を押し進めている。だから無駄な事をしないと、物事は進まないのです。
 
 他人からはバカな事に見える無駄な事が行われないと、その人の活動は進まないのです。8割のレベルの低いことを積極的に軽々とやらないと、2割の重要な仕事ができない。つまりよく遊ぶ人こそが良い仕事をするのであって、遊ばなければ、新陳代謝は進まないのです。

 というわけで、実際の美術界も、大量の無駄な美術作品が作られ、売られているわけですが、これこそが20%80%の法則通りの事象であって、まったく正しい現実なのです。
 海外の有名な動向をなぞった偽芸術の作品を、ありがたがって評価するという日本社会の傾向も、社会というものが消費によって作動しているという意味で、あまりにも正しい行動なのです。人類史の中で見れば、必ずしも全ての国が芸術の生産国ではないのであって、芸術の消費国というものもあるのです。日本の近代美術史の大半が、西洋美術の消費でしかないというのも、消費理論の中では肯定されるべきものであって、日本の現実に見られる無惨さと愚劣さは肯定されるべきものなのです。
 
 日本の現代の美術や芸術の状況は、ひどいものだと思いますが、しかし現実を安易なレベルで批判したり、嘆いたりしても始まらないし、そのような行為は間違っているのです。日本国の国際政治状況と、日本芸術の位置は無関係ではないのであって、日本国が国際政治的に低ければ、芸術もまた低くても、止む終えないのです。日本は国際政治でも、国際芸術でも諸費国であって、無駄な消費活動をしていることもまた、人類史的には深い意味があるのです。愚劣で低いという事が、事実であるのならば、事実を事実として直視して、この上に肯定の意思を持って立つべきなのです。人類史には無駄も、愚行も、そして愚かな事故も必要なのです。全てが肯定される必要があります。
 社会の本質を考えれば、80%の無意味なことがらやフリの偽芸術こそが、社会を作動させているのですから、消費されて後世には残らない駄作の美術作品の制作こそが、社会的には重要であるのです。社会性をもった芸術作品とは駄作なのです。
 8割の駄作をつくることによって、はじめて2割の傑作が生み出されます。真にすぐれた芸術作品の制作というのは、消費されないものであって、このオリジナル性には、社会性が無いのです。社会性の無い名作は、つまり歴史を経て、初めて人々の理解に届くのです。 

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 だからといって、すぐれた芸術は売れないものだと結論して、売れないものを作ればすぐれいているという安易な態度も、間違っています。多くの売れない美術作品は、これもまた消費行動すに過ぎないことは、事実なのです。制作された9割の美術作品が壊されるというのが現実であって、それは作られる美術作品の多くが、制作ではなくて消費である事を意味しています。
 
 そういう意味で、消費活動としての芸術分析が必要であり、それは芸術社会学の問題でもあるのです。これら消費としての芸術活動を、積極的に事実として評価していく事が必要なのです。
 どのように消費するのか、どのように無駄をするのか? 無駄であり、無意味な事こそが現実なのです。この現実を現実として直視する必要があります。そして、日本の荒廃した最悪の現実を肯定していく必要があります。

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丈

私の弟が建築関係の仕事をしていて,震災前は仕事が無くなってきていて廃業寸前でしたが、復興需要で東北に仕事ができて息を吹き返したようです。
by (2011-05-16 12:44) 

ヒコジイ

丈様
コメントありがとうございます。
弟さん、復興需要の仕事が入って、良かったですね。

芸術における消費の問題は、実は1975年以降の作家には出ていたのですが、私は理解できませんでした。その過激化が村上隆であったと言えます。

本格的な高度消費社会に入ったのは、1970年以降だったのです。それまでは労働が中心の社会であって、節約がたいせつだったのです。いわゆる「節約の美徳」です。が、高度消費社会では、消費活動が社会の中心を占めるようになって、浪費が奨励される社会になったのです。

消費を押し進め、経済を発展させ、環境対応技術を進化させ、人間の欲望を満たして快適に過ごし、自然とふれあい、アネットを介して新しい人間関係をつくり、社会の構造を変えていくという時代になったのです。
by ヒコジイ (2011-05-17 06:45) 

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